国見八景・第一景「大崎八幡神社」

 確か西郷隆盛夫人だったと思うが、「うちの人はそんなに
偉い人だったんですか?」と驚いたという。身近な人物で
あればあるほど、評価ば「あたりまえ」「ごく普通」という
ものになるのだろう。
 同様に、生まれ育った町の通い慣れた場所というのも、
本人にとっては「日常」の、ごく当たり前の所になっている。
ところが、少し離れた視線から改めて眺めてみると、
けっこうおもしろい。意外な人物がひょっこり現れたりする
ものである。
 さて、ここはみちのく・仙台市。仙台駅から北西約5キロの
高台。私が生まれ育った「国見」という所。家の目の前には
東北福祉大学がある。
 旧町名は「長者荘」だった。仙台藩当時、富裕な商家の
別荘でもあったのだろうか。赤松多い山林で沼が点在して
おり、仙台城下御府内の北限だっただろう。標高が
100m程あり、場所によっては太平洋の水平線を望める。
海から昇る、丸く熟した朝日は格別に美しい。
 この長者荘から八幡町方向に歩く事15分で、仙台市立
第一中学校、略して仙台一中に着く。今でこそ鉄筋コンク
リート3階建てだが、私が通学していた当時は、年代ものの
木造校舎だった。もしここが火事になったならば、消防車
は全て「裏」に集結するだろうと噂されていた。仙台一中の
「裏」にある建物こそ、国宝・大崎八幡神社なのである。
 鬱蒼とした杉木立に囲まれて、黒漆を基調にした社殿が
ある。国宝というだけなら、特にありがたがる義理はない。
私が興味を持ったのは、大阪生まれの司馬遼太郎が
みちのくに憧れ、大崎八幡神社に是非一度来たいと願って
いたと知ってからの事である。
「それほどのものだったのか」と、再認識したわけである。
 そもそも仙台藩祖・伊達政宗は、伊達家17代目の当主で
ある。鎌倉から室町時代は、福島県伊達郡や、山形県米沢を
領有していた。それが豊臣秀吉の命によって、宮城県に
移封されたのである。
 伊達政宗が宮城郡国分ノ内せんだい千代に築城を
始めたのは、1600(慶長5)年12月24日の事で、
千代を「仙台」と改め、縄張り始めの儀式を行っている。
古代から人が住み、田畑が開けていたのは、仙台の北東・
陸奥国府多賀城と七北田川流域であり、仙台は沼沢・
渓流が多い原野だった。
 大崎八幡神社は、仙台城下鎮護の目的で1604
(慶長9)年秋に着工された。普請奉行・富塚内蔵頭(くらのかみ)
信継。造営奉行・木幡もくの杢すけ助旨清。頭領・
梅村三十郎頼次。工匠・ぎょうぶ刑部左衛門国次。
日向守家次。鍛師・うたの雅楽すけ助吉家。画師・佐久間
右京など、全国から集められた名匠たちだった。
平成の解体大修理の際、「なんだか知らぬ間にこんな所まで
連れて来られて、仕事するハメになってしもうた」という、
愚痴的文書が発見されている。
 この社殿がなぜ国宝なのかは、桃山様式という、全国に
ほとんど残っていない建築様式として現存しているからで
ある。司馬遼太郎も「秀吉好み」の桃山建築が見たかった
のだろう。秀吉の後を継いだ徳川家康が秀吉の好みを嫌った
為、桃山様式は10数年で亡んだという。
 大崎八幡の社殿は権現造りで、本殿・拝殿・石の間の
三殿一体の様式になっている。床や柱・板戸は黒漆塗りで、
欄干は黄金。天井やらん間は、仏教的・道教的彫刻が
過剰なまでの極彩色で飾られている。だが全体が黒を
基調にしている為、日光東照宮のようなごてごてした
感じはない。
 黒と金という色彩感覚ですぐに思い浮かぶのは、大阪
夏の陣で焼失した大阪城天守閣である。金を最も美しく
見せる黒色。家康は江戸城や名古屋城などの天守閣を、
全て白に塗っている。戦国オセロゲームとでも呼びたくなる。
黒と金の組み合わせが、安土桃山時代の美学を象徴する色
だったのだろう。
 伊達政宗という人物は、禅で磨いたヘソ曲がりと反骨の
胆(はら)があり、同時に秀吉好みの「芸」を心得ていた。
1592(天正20)年3月、朝鮮出兵の軍団が京を出発。
前田・徳川軍の後に、伊達軍三千が続いた。軍団は紺地に
黄金の日の丸の旗30本。鉄砲・弓・槍組の徒歩兵は全て、
黒塗りの具足で、胸と背に金の☆マーク。騎馬武者は黒の
母衣(ほろ・マント)に黄金の太刀大小を帯びるという軍装。
 この伊達軍団の渋いダンディズムを、都人が「ダテ者よ」
と感嘆して囃したという。政宗は、これほど美しい軍団を
泥だらけの最前線に送るような秀吉ではあるまい、という
読みもあった。政宗は幼い頃、疱瘡(天然痘)で右目を失明
し、独眼竜の異名を持つ。黒と金の美学から、猿と竜との
化かし合いも見えてくる。

国見八景・第二景「南山閣」

 インターネットで女流詩人と知り合った。彼女は高浜虚子
が好きだと言う。明治時代の俳人の事など、私はほとんど
知らなかった。芭蕉や蕪村を調べていた時だったので、
虚子も少し探ってみた。
 虚子は1874(明治7)年2月、愛媛県松山市に池内清と
して生まれた。
ちょうど一年前、同じ松山市に河東乗五郎が生まれていた。
後に虚子と同級生となり、同じ俳句の道を歩む河東碧梧桐
(へきごどう)である。
 虚子は生涯に20万句もの俳句を生み出した。
「銀河西へ 人は東へ 流れ星」
「悠久を思ひ 銀河を仰ぐべし」と、宇宙を詠むあたり
「荒海や 佐渡に横たふ 天の河」という芭蕉の句を思い
起こさせる。
 また芭蕉は、「西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、
利休の茶、其の貫道するものは一なり」と、笈の小文で
語っている。表現様式は違っていても、精神の在り様は
ひとつだと。これを虚子は
「芭蕉忌や 遠く宗祇に遡る」と、さらに圧縮して詠っている。
両者五分と五分の力量と観た。
 虚子は1891(明治24)年に、碧梧桐を介して同郷の
先輩・正岡子規と出会う。1867(慶応3)年9月生まれの
子規は、この時24歳。虚子は7歳年下の17歳だった。
 司馬遼太郎はこの正岡子規に、陸軍騎兵隊の秋山好古、
海軍参謀の秋山真之(さねゆき)という、四国・松山が生んだ
三人の人物を軸にして、小説「坂の上の雲」を書いた。
彼は子規に対して、並々ならぬ愛着を抱いていたようだ。
 だが私は子規が苦手だった。脊椎カリエスという病に
冒され、病床7年あまり。35歳の若さで死去するという、
人生の概略程度は知っていた。何とも痛々しく、悩ましい
人生である。それゆえとっつきにくかった。
「柿食えば 鐘がなるなり 法隆寺」という、あまりにも
有名な句の作者が子規であることも、俳句の弟子に夏目漱石
がいることも知らなかったのである。
 その子規が、1893(明治26)年7月に、仙台を訪れて
いる。東大を中退し、日本新聞社に入社した頃である。
「松島の風、きさかた象潟の雨に心ひかれ」とある
から、やはり俳聖・芭蕉を意識した旅だったのだろう。
 芭蕉は「おくのほそ道」冒頭で、「松島の月まず心に
かかりて」と旅の動機に触れ、象潟(秋田県由利郡象潟町)に
舟を浮かべて、「松島は笑うが如く、象潟はうらむが如し」
と対比させている。こうした美しい形容を、実際肌身で体感し
てみたいと思うのも無理はないだろう。
 「みちのくの 涼みに行くや 下駄はいて」と、子規は
開通間もない東北本線の汽車に乗ること12時間。仙台に
到着し、国分町大泉旅館に宿を求めた。
翌日、友人・鮎貝かいえん槐園が住む「南山閣」を訪れた。
「はてしらずの記/7月31日。旧城址の麓より間道を過ぎ、
広瀬川を渡り槐園子を南山閣におとな訪ふ」
 国分町から仙台城(青葉城)大手門へ向かう大橋を渡って、
現在の県立美術館あたりの道を大崎八幡神社方向へ。
神社大鳥居から西へ200m程行くと、荒巻南山を登る
「うなぎ坂」という急坂がある。この細道をえっちらおっちら、
息を切らし汗を流しながら登ってゆくと、雑木林に囲まれた
「南山閣」に着く。現在の住所だと、国見3丁目である。
「閣は山上にあり。川を隔てて青葉山と相対す。青葉山は
即ち城址にして、広瀬川は天然の溝渠(こうきょ)なり。
東に眺望豁然と開きて、仙台の人家樹間に隠現し、太平洋
の碧色空際に模糊たり」と、子規は漢詩の如き美文で
述べている。
 そもそも南山閣とは、仙台藩士・石田家の別荘だった。
明治になり、帰農した石田家に代わって、上山五郎が
入居する。彼は映画俳優・上山草人の父であり、宮城医学校
教授。静山と号し、漢詩をよくした。
 上山と交遊し、南山閣を訪れた者の中に落合直文・
鮎貝槐園兄弟がいる。彼らは1893(明治26)年に、
与謝野鉄幹らとともに「浅香社」をおこし、新短歌運動を
おこした。子規とは、この運動を通して知り合ったのである。
 子規と槐園は、南山閣で詩を語り、歌を語り合った。
「涼しさの はてより出たり 海の月」
太平洋の水平線から昇る、丸く大きな月が目に浮かぶ。
 子規は仙台や塩釜神社、松島に遊び、8月5日作並
から山形方面へと向かった。この後の病床を思うと、
何とも切ない程すがすがしい旅だった。
「秋風や 旅の浮世の 果知らず」
せめてあと30年、芭蕉同様の旅をしたならば、
子規はどんな句を詠んだだろうかと思わずにはいられない。

 上山は「荒月の月」の作詞者として知られる、
地元の詩人・土井晩翠とも交遊があった。土井もまた
南山閣に遊び、処女詩集「天地有情」などの構想
を練ったという。荒城の月は、子規が南山閣を訪れた
5年後の、1898(明治31)年、晩翠28歳時の作である。
「春高楼の花の宴 めぐる盃影さして ちよ千代の松がえ
 枝わけい出でし むかしの光 いまいずこ
 秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて 植うる
 つるぎに照りそいし むかしの光 いまいずこ」
 子規が「天然の溝渠」と評した広瀬川の断崖。
濃い杜の緑。太平洋に昇る太陽と月。国見の里には、
漢詩的な詩魂がひっそりと息づいているのかもしれない。

国見八景・第三景「龍雲寺」

 酒飲みは甘いものが嫌いというのは、世間の常識なの
だろうか。私は酒も甘味も好きである。幼少時からの甘味と
いえば「しへい子平まんじゅう」だろう。
茶の薄皮と、まろやかな餡の味が絶妙で美味い。
 小中学校での祝い事や、敬老的紅白まんじゅうも、
子平まんじゅうの味である。まさに国見の里に根ざした
甘味なのである。店は子平町にあるが、旧町名「伊勢堂下」
と呼ばれた頃から子平まんじゅうだった。町名もまんじゅう
の名も、「寛政の三奇人」と言われた林子平という人物に
由来している。墓所が町内の、曹洞宗金台山龍雲寺に
あるからである。
 龍雲寺は仙台開府から間もない1606(慶長11)年に、
輪王寺9世久山和光和尚の隠居寺として開山したのが始まり
である。ここが林家の菩提寺であった。
林子平友直は、1738(元文3)年6月21日、幕府旗本
620石の岡村源五兵衛良通の次男として、江戸小日向水道町
に生まれた。八代将軍・吉宗の時代である。子平3歳の時、
父が刀傷事件を起こして浪人となり、医者である叔父の、
林従吾に引き取られた。
 子平には6歳年上の姐・なほ奈保がいた。奈保12歳の時、
仙台5代藩主・伊達吉村の侍女になる。やがて吉村の子で
6代藩主・宗村の側室「お清の方」になり、藤五郎
(土井左京亮利置)と、静姫(松江城主・松平出雲守治好室)の
一男一女を産むに至る。子平の兄・ともさと友諒は
150石で仙台藩に召しかかえられ、林家は仙台へ移住する
のである。
 子平は頭脳明敏にして、健脚な旅好きだった。北海道から
九州まで、下駄ばきで闊歩したという。乗馬が得意で、
武芸で精神を磨く好奇心旺盛な侍だった。
 長崎へは3度遊学している。最初は1775(安永4)年の
事で、子平38歳。通詞・松村元綱所蔵の「世界之図」を
書写している。子平はここから国際派へと脱皮する。
この年の前年、前野良沢・杉田玄白による「解体新書」が
刊行されている。
 子平はオランダ人・ロシア人と積極的に交流し、海外情報を
吸収していった。その知識と思想の集大成が、「三国通覧図説」
である。ここで彼は、蝦夷(北海道)・樺太・千島列島は、
日本の領土であると主張した。だがこの主張は誰にも
理解されなかった。当時これらの地域は、不毛の外国と
観るのが常識だった。
もし文句があるならば、大日本史を編纂した水戸黄門氏
にでも言ってほしい。
 三国通覧図説は幕末、フランス語とドイツ語に翻訳される。
アメリカとの外交交渉では、小笠原諸島が日本領である
証拠としてこの本が示された。時代の常識などというものは、
いつの時代でもあまりあてにならないものらしい。
 子平はさらに、「海国兵談(全16巻)」を著す。
彼はここで日本の海防を説き、
砲台を設置し、造艦・操船・練兵を行う海軍の重要性を
説いた。極めて先見的な兵学書だった。
 しかし時代が悪かった。清濁併せ呑む田沼意次政治の
反動として、11代将軍・家斉を補佐したのは、もと
白河藩主の老中・松平定信という厳格・潔癖な人物だった。
彼は朱子学以外の異学を禁じ、言論・風俗を厳しく取り締まっ
た。「白河の 清きに魚のすみかねて もとの濁りの
田沼恋しき」と、狂歌が定信を痛烈に皮肉った。
 海国兵談は板木召し上げ。本人は一切の活動を禁じられて
幽閉の身となった。
「親もなし妻なし子なし板木なし 金もなければ
死にたくもなし」と、六無斎(ろくむさい)と号した子平は、
和歌を唯一の気散じとしながら、1793(寛政5)年6月21
日、56歳で病没した。
 しかし子平の著作は、時代の情勢に呼応して復刻される。
そしてこの書の重要性を認識した人物が、長州(山口県)で
著作を講義することになる。松下村塾の吉田松陰である。
子平は国防の先見者として、伊東博文ら松下村塾出身の
明治政府の元勲らによって尊敬され、名誉を回復される
事になるのである。
 ところで龍雲寺には、もう一人「奇」なる人物の墓がある。
名を細谷十太夫直英という。彼は1844(弘化元)年、
伊達郡(福島県)細谷村に生まれた。
仙台藩大番士で食録は50石。色白の小男ながら、
剣槍弓銃術などの武芸に長じていた。時は幕末・戊辰戦争、
奥州白河小峰城攻防戦。24歳の細谷は、安達・信夫二郡
(福島県)のやくざ衆80名あまりを従えて「衝撃隊」を編成
し、官軍営舎を次々に夜襲した。
 黒装束に太刀という姿から「鴉組」と称され、30余戦
すべてを成功させ、官軍の心胆を寒からしめた。戦いそのもの
は銃の威力に勝る官軍が勝利したが、時の仙台藩主・
伊達慶邦は、鴉組の活躍を愛で、細谷に武一郎の名を与え、
200石を加増した。
 細谷はその後、1877(明治10)年に勃発した西南の役に、
陸軍少尉として参戦。1894(明治27)年の日清戦争にも、
千人長として参戦している。刀と銃弾の修羅場を、幾度も
くぐり抜けてきた根っからの武人だった。
 その細谷が、晩年頭を丸めて龍雲寺の住職になるのである。
彼は林子平をこよなく尊敬していたという。子平が火種と
なり、吉田松陰が点火し、動乱の時代が始まった。
その渦中を、細谷は戦場で生き抜いてきた。戦さゆえ、人を
斬った。その手ごたえは生々しいものだろう。
戦死者の霊よ安らかにと、祈りたくもなるだろう。
細谷は今、龍雲寺の境内で「細谷地蔵」として墓参者に
微笑みかけているのである。

国見八景・第四景「北山五山」

 鎌倉五山とは、建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺。
京都五山といえば、天龍寺・相国寺・東福寺・建仁寺・万寿寺で、
その上に南禅寺があった。
 五山の由来は祇園精舎・竹林精舎・大林精舎・誓多林精舎・
ならんだ那蘭陀精舎という、天竺(インド)五山にまで遡る。
中国では、径山興聖万寿寺・阿育王山広利寺・大白山天童景徳寺・
北山景徳雲隠寺・南山浄慈報恩光孝寺となる。
 まあ、主要な5つの禅寺といったところだろうか。五山の僧は
漢詩をよくした。ひっくるめて五山文学と言った。仙台藩祖・
伊達政宗も、禅と漢詩の素養を身につけて育った。仙台開府と共に、
青葉城北部の北山丘陵に五山を設けた。
 私が住む所は伊勢堂山中腹だが、北山丘陵はその隣に位置して
いる。五山は全て臨済宗の寺で、遠山覚範禅寺・慈雲山資福禅寺・
無為山東昌禅寺・松蔭山光明禅寺・當牛山満勝禅寺である。

 鎌倉時代の伊達家は、伊達郡桑折(福島県)を本拠にしていた。
初祖とされる朝宗は、満勝禅寺に葬られている。4代政依(まさより)
の頃、東昌・光明・満勝・観音・光福の五寺を、伊達五山とした。
 16代輝宗は、1572(元亀3)年米沢(山形県)の地に資福寺を
再興し、こさい虎哉
そういつ宗乙和尚を招いた。虎哉は美濃国方県郡(岐阜県)の生まれ。
甲斐国(山梨県)で武田信玄の師であった快川紹喜(かいせんしょうき)
の、二甘露門(高弟)の一人だった。快川は織田信長の恵林寺焼き討ち
に際し、「安禅必ずしも山水をもち須いず。心頭を滅却すれば
火も自ら涼し」という名言を残し、炎と共に入寂した傑物である。
 虎哉は輝宗の子・政宗を、6歳の頃から40年あまりの長きに
わたって、禅と学問によって鍛えあげた人生の師であった。
覚範寺は1601(慶長6)年、仙台開府と共に虎哉によって開山された。

 資福禅寺は、別名「あじさい寺」と言われている。山門から本堂まで、
石段の両側を紫陽花が埋め尽くしている。梅雨時の花の盛りに訪れると、
普段は俗塵にまみれている心も、詩情のゆらめきに洗われる事になるだろう。
 また資福禅寺境内には、幹が7つに分かれている、樹齢320年の七香木蓮、
樹齢200年の五葉松、同じく樹齢200年のこうざんようなどの古樹もある。
 東昌禅寺本堂前には、樹齢350年の赤松が2本ある。そこから少し離れた
所に、伊達政宗が仙台城の鬼門除けに植えた、樹齢500年の「マルミ(丸実)
ガヤ」がある。秋の初めになると、今でも多量のカヤの実を落とす。この実は
「御前ガヤ」と称し、政宗も好んで食べたという。むろん私も食べた。なかな
か「渋い」味だった。

 光明禅寺には、支倉六右衛門常長の墓がある。政宗は、当時スペイン(イスパ
ニア)の植民地だったメキシコ(ノビスパニア)との貿易を望み、スペイン国王に
使者を送る事を決した。辛抱強い男がよかろうと、家臣団の中から選ばれたの
が、支倉常長だった。
 1613(慶長18)年9月15日、500トンの木造帆船「サン・ファン・
バプティスタ号」は、仙台領牡鹿半島月の浦を出航。黒潮にのって太平洋を
渡り、北米サンフランシスコ沖からメキシコ、キューバを経て、2年後スペイン
の首都・マドリードに到着した。
 常長は奥州国王の名代として、政宗の書状を国王・フェリーペ三世に手渡し
た。また、王立デスカルサス修道院において、国王臨席のもと、カトリックの
洗礼をうけた。洗礼名フランシスコ。ドン・フィリポ・フランシスコ・ハセク
ラの誕生だった。
 その後常長一行は、フランスのサン・トロペを経てイタリアへ向い、161
5(元和元)年11月3日、ヴァチカン宮殿でローマ法王パウロ五世に謁見した。
遥か東方よりの使者に対して、彼らにはローマ市民権証書が贈られた。
 この頃の日本国内は、大阪冬・夏の陣で豊臣家が滅び、キリシタン禁教令に
よる迫害が、全国規模に拡大しつつあった。京・大阪の宣教師や信徒は、迫害
を逃れて奥州に集まり、政宗も寛大に受け入れていた。
 1616(元和2)年、徳川家康75歳で死去。翌元和3年、常長一行はメキ
シコで、政宗の使者・横井将監と会い、帰国命令をうけた。横井はメキシコで
洗礼をうけ、「ドン・アロンソ・ハーシャルド」となる。
 常長や横井は、フィリピンのマニラに2年間とどまり、1618(元和4)年
8月、ひそかに帰国した。政宗は5年におよぶ常長の労苦を労ったが、幕府の
キリシタン禁教令の圧力には逆らえず、元和6年に至って伊達領内すべての者
に改宗を命じる事になるのである。
 1622(元和8)年7月1日。支倉常長は柴田郡支倉村(宮城県川崎町)で病
没。52歳だった。仙台領のキリシタン信徒は、支倉家を中心にして広まって
ゆくのだが、1640(寛永17)年3月1日、改宗に応じない常長の子・常頼
が切腹して果てた。42歳だった。弟・常道は、キリシタンのまま他国へ逃亡
した。
 常頼の家僕・与五右衛門と妻・きり、常頼の養女・しいな、料理人・大窪
太郎兵衛と妻・せつ、召使い惣四郎、常長と共にローマに行った家僕・勘右
衛門ら、改宗に応じない支倉家の人々は、「釣殺しの刑」と呼ばれる処刑法で
死んでいった。
 光明寺墓地の、木立に囲まれた穏やかなたたずまいの支倉常長の墓所を訪れ
ると、時代の思惑に翻弄され、信仰に殉じた人々の光と影を想い、哀切の情に
包まれるのである。


国見八景・第5景「輪王寺」

 ギタリストの友人が、琴と胡弓でコンサートを開くと
いうので、秋の夕暮れに散歩気分で出かける事にした。
会場は北山の曹洞宗金剛宝山輪王寺。かつて
仙台領808ヶ寺の僧録司(曹洞寺院の総管掌)だった禅寺
である。京都五山の別格が南禅寺なら、北山五山の別格が
輪王寺なのである。
 交通量の多い北山バス通りから、一歩輪王寺参道に入ると、
静謐な「気」に包まれる。街灯もなく、松の木の陰から
辻斬りに襲われそうな闇がある。そこに元禄年間に建てられた
山門(仁王門)が現れる。古びた感じが渋い。「海東禅窟」の
扁額がある。
 輪王寺の開山は、室町時代の1441(嘉吉元)年4月8日。
伊達家9世・大膳大夫政宗夫人(輪王寺殿蘭庭尼大姉)の
祈願により、11代持宗が伊達郡梁川(福島県)に創建
したものである。当時学徳兼備の名僧として知られた、
太庵梵守和尚を開祖として迎えた。
 9世政宗夫人・蘭庭尼は、3代将軍足利義満夫人の妹に
あたり、6代将軍足利義教は、後花園天皇に奏請し、
「金剛宝山輪王禅寺」の宸筆の額面を賜っている。
輪王寺はその後、伊達家の居城とともに移転し、山形県
米沢市、福島県会津若松市、宮城県岩出山町を経て、
1602(慶長2)年に現在の仙台市青葉区北山の地に落ち
着いた。
 輪王寺の造営は、仙台藩祖・伊達政宗から4代にわたって
受け継がれ、綱村の代に至ってようやく完成した。参禅
弁道の雲水は常に数百人と言われ、奥州随一の禅の名刹だった。
しかし1876(明治9)年3月、野火の類焼により
仁王門を残して、本堂・営舎のことごとくが灰燼に帰して
しまった。
 曹洞禅の大本山・永平寺と総持寺は、名刹の廃滅を
惜しみ、福定無外和尚を住職に特選して復興を図った。
無外和尚の寝食を忘れての働きによって、1915
(大正4)年に本堂と庫裏が完成した。
 無外和尚は次に、造園に着手した。
「園林諸堂閣種種宝荘厳宝樹多華果 衆生諸遊楽(法華経)」
の精神を具現化した造園であるという。コンサートはその
庭園に面した、20畳程の部屋で行われた。舟遊びが出来る
ほど広くはない池があり、その周囲には四季の花が咲く。
水面の上に月も映る。そうした庭の風光を愛でながら、
茶を喫し、あるいは友人が奏でる「琴と胡弓」を楽しむなど、
無外和尚の願いにかなった、仏法的平和というものだろう。
 輪王寺第41世・無外和尚は、1943(昭和18)年
5月22日に遷化し、天外五峰和尚が後を継いだ。
天外和尚は空襲で荒廃した仙台の街に立ち、辻説法をして
復興を説く、骨太の禅者だった。開祖・道元の「只管打座」
の精神で、参禅する者を導いたという。

 仙台城北部の北山丘陵には、西から羽黒神社、輪王寺、
資福寺、覚範寺、東昌寺、光明寺、鹿島神社と、ずらりと
神社仏閣が並んでいる。この配置は、もはや「城壁」という
以外にない。政宗もおそらく、そういう軍事的意図をもって
いた事だろう。
 藩政時代、この「城壁」の西と東の端から、北に向う道が
二本あった。東端は芭蕉の辻から青葉神社へ直進し、
光明寺の下から堤町に抜ける奥州街道である。仙台藩の
幹線道路として、江戸初期の元和年間に開通した道である。
堤町の先にある北根村は、戸数0の黒松林だったという。
 そして輪王寺の西端を北に向う道が、七北田街道である。
実はこの道、いにしえの奥州街道(古街道)であり、別名
「秀衡街道」と呼ばれていたのである。
 平安時代、奥羽全域を支配下に置いていた藤原清衡
(1056〜1128)は、平泉に中尊寺を建立し、
大和朝廷から半ば独立した形で独自の黄金文化を築き
あげてゆく。清衡の後を二代・基衡、三代・秀衡、四代・
泰衡が受け継ぎ、源頼朝によって滅ぼされるまで、およそ
100年余の栄華を誇った。
 有史以来今日まで、人類が発掘した金の量は約10万トン
と言われているが、藤原四代が使用したであろう金は、
およそ300トン。2000万両にのぼる
と推定されている。時価1g3000円として、9兆円
である。
 白河関(福島県)から青森県陸奥湾の外が浜蓬田村に至る
「陸奥街道」には、1町(約9km)ごとに黄金の阿弥陀仏
を刻んだ笠卒塔婆を建てて、道標にしたというから
ものすごい。砂金は奥州の砂だった。
 1180(治承4)年8月。源頼朝が伊豆で挙兵した事を
知った源義経は、平泉から兄・頼朝のもとへと向う。
この時はおそらく陸路であり、陸奥街道を騎馬で南下した
ものと推測される。輪王寺脇の、今では名も無き普通の道を、
義経やら弁慶やらが駆け抜けていったのかと思うと、
何やら歴史のロマンという香を放ち始めるから不思議な
ものだ。

国見八景・第6景「荘厳寺」

 真保裕一という、エンターテーメント系の作家がいる。
「奪取」という偽札づくりの長編小説は、あまりの面白さの
為、丸二日で読みきってしまった。
映画化された「ホワイトアウト」も同様だった。主人公の
真情に共感し、最後のページ近くで感動の涙がこみあげて
きた。
 その手練の作家が、山本周五郎作「樅の木は残った」は
すごいぞと書いていたので、少し気になった。この小説は、
仙台藩祖・伊達政宗亡き後のお家騒動を扱った内容で、
1970年同名のタイトルでNHKの大河ドラマとなり、
平幹二郎が伊達家の筆頭家老・原田甲斐を演じた。
 当時から大河ドラマのファンであり、小学生ながら
「竜馬がゆく」や「天と地と」をワクワクしながら見て
いた私だったが、「樅の木─」は時代も内容も渋過ぎた。
いわゆる政治の腹芸であり、大人の心理劇だったからだろう。
ゆえに作者の山本周五郎作品も、熱心に読んではいなかった。
 それから30年を経て、地元の資料に目を通していた
時の事。新坂通りの浄土宗荘厳寺という寺に、原田甲斐の
屋敷の門が移築されていると書かれてあった。近所の
ことゆえ、その寺を探す散歩に出た。
 大願寺横丁のゆるやかな坂道を下り、歩く事10分で
目指す荘厳寺に着いた。そして驚いた。寺の敷地内に、
私が通っていた幼稚園があったからだ。私はそれとは
知らずに、黒く古びた原田邸の「逆さ門」を、
幼少時から幾度となくくぐり抜けていたのである。
奇縁だった。
 そもそも伊達騒動は、1660(万治3)年7月18日、
仙台藩3代藩主・伊達綱宗が、「諸事不作法かつ悪事
遊興不行跡のかどにより」幕府から「ひっそく逼塞」
を命じられた事に始まる。この時綱宗21歳。
藩祖・政宗に似た剛毅な性格だったという。
 逼塞とはつまり、藩主を引退して屋敷に引っ込んでいろ
という事である。別に綱宗が乱心したわけではない。
江戸・新吉原の遊郭で、多少盛大に遊女たちと酒宴を張って
いたというだけの事である。水戸光圀はじめ、若い大名・
旗本たちは、当然のように遊郭遊びをしていた。
 幕府は3代将軍・家光の頃までに、肥後熊本の加藤家を
はじめ、蒲生家、京極家など、外様26家、一門・譜代
17家を取り潰してきた。藩主や家臣のちょっとした
不始末が、お家取り潰しの口実に用いられてきた。
 綱宗の遊郭通いも、重臣たちは反対だった。出来れば
幕府に知られたくない。
だが密偵を使って綱宗の一切の言行を報告させ、話に
ある事無い事尾ひれをつけて幕府に報告した男がいる。
伊達政宗の十男・伊達ひょうぶ兵部しょうゆう少輔宗勝
である。つまり綱宗は、彼によって失脚させられたのである。
 伊達兵部は、幕府の老中首座・酒井雅楽頭(うたのかみ)
忠清と、伊達62万石分割の密約を結んでいた。兵部の子・
宗興(むねおき)に30万石。綱宗の妹の夫・立花飛騨守
の子・直茂に15万石。片倉小十郎を直参大名に取り立てて
3万石。残りは綱宗の兄・田村右京宗良(むねよし)にと
いう、具体的な内容だった。綱宗は品川屋敷に隠居し、
2歳の亀千代が伊達62万石を相続した。伊達兵部と
田村右京が、その後見人となった。
 この伊達家分割案は、4代将軍家綱のお側衆・下総関宿
4万石の久世大和守広之から、伊達家重臣・茂庭周防定元
に漏らされる。驚愕した茂庭周防は、妹の夫・原田甲斐
宗輔に相談する事になる。原田家は、伊達家初代・朝宗の
代から伊達家に仕えてきた、宿老の家柄だった。
 原田甲斐は兵部の野望を阻止すべく、あえて兵部の懐に
飛び込む。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」というわけで
ある。面従腹背の腹芸は、なかなかわかりにくい。
甲斐の真意を図りかねて、彼のもとを去ってゆく同士も
少なくなかった。
 だが甲斐は、信頼出来る家臣を亀千代の毒見役にして
毒殺から守り、酒井と兵部の間に交わされた密約書を入手
するのである。甲斐は密約書を老中・久世大和守に託した。
 一方幕府は、田村右京と伊達安芸の領地争いに対して
老中評定を開き、藩内不統一を理由にして分割の流れを
つくろうと画策していた。首謀者はむろん、大老になった
酒井雅楽頭である。
 甲斐は分割案を回避し、兵部を排除し、なおかつ酒井ら
幕府の面目を潰さぬようにと、大手下馬先・酒井雅楽頭
屋敷の評定の席において、伊達家重臣・伊達安芸宗重
(57歳)、柴田げき外記とももと朝意(63歳)を刺し、
自らは蜂谷六左衛門可広(よしひろ・58歳)と斬り結んで
相打ちになった事になっている。
 だが甲斐が不意に伊達安芸を刺す事が出来たにせよ、
その後誰も止めず、柴田が抵抗もせず殺されたという状況
にはやや無理がある。屋敷内では皆、脇差だけなのである。
伊達家の重臣たちは、酒井家の家臣たちによって謀殺され、
その罪を甲斐がかぶったという説明のほうが近いように
思える。
 ともあれ原田甲斐は、1671(寛文11)年3月27日、
自ら乱心し悪の汚名を着て、53歳で死んだ。伊達安芸が
死んで藩内不統一の理由が消滅。久世の働きかけもあり、
亀千代と伊達62万石は安泰となった。亀千代は成人後、
名を綱村と改める。1703(元禄16)年に隠居するまでの
26年間、安定した文治政治を行った。
 だが逆臣・原田家に対する処分は過酷だった。
嫡男・原田帯刀(たてわき)宗誠(25歳)、
二男・飯坂仲太郎(23歳)、三男・平渡(ひらど)喜平次
(22歳)、四男・剣持五郎兵衛(20歳)いずれも切腹。
宗誠の子・うねめ采女(4歳)伊織(1歳)は斬首。甲斐の母、
慶月院は終身禁固を申し渡され、自ら30日の絶食を
行って死亡した。
 宿老・原田家は断絶となり、所領の船岡館も取り
壊される事になった。家老の堀内惣左衛門は、船岡館に
火をかけ、原田家の菩提寺・東陽寺で切腹して果てた。
伊達兵部は所領没収のうえ、土佐・山内家にお預けの身と
なり、1679(延宝7)年病没した。その翌年には
4代将軍家綱が没し、酒井雅楽頭は大老職を免じられた。
世は5代将軍綱吉の時代になってゆくのである。
 ふと思う。原田甲斐は、密約書を久世大和守に預けて
死んでいった。そこには自らの命と引き換えにした
「信」があった。そして久世は、その信を果たす。
血なまぐさい政治劇の中で、武士の信義がきらりと光る。

国見八景・第7景「大願寺横丁」

 私の家の近所は、寺と墓地が数多くある。「墓地が恐くて
国見に住めるか」と言ってみる。まず、門を出て約10
メートルの所に、西本願寺仙台別院の墓地がある。
その東に、浄土宗大願寺、超光寺、称念寺、永昌寺、
充国寺、昌繁寺、荘厳寺、正円寺、称覚寺、恩慶寺という、
浄土宗系の寺と墓地が並ぶ。
 正円寺の隣には、曹洞宗江厳寺があり、臨済宗輪王寺と
北山五山の禅寺を加えると、20余の寺社が密集して
建ち並んでいる事になる。墓は3千を越える数になる
だろう。
 そもそも「墓」とは、土で人をおおうという意味である。
盛土を「墳」と言い、樹木を植えて墳墓と呼んだ。
古代の人々は、地下世界を死者(死霊)の住居として
怖れていた。死者は危険で恐ろしいものであり、生者に
対して害を成す存在だった。
 石には、死霊や悪霊、あるいは外敵を封じ込める霊力が
あると信じられていた。イザナギ命が黄泉国から逃げ帰った
時、黄泉国に通じる穴を石で塞いだという話もある。
 狐という動物は、古墳の穴を好んで棲家にしていた。
そのため人々は、狐を見て死霊や祖霊の化身だと思うように
なった。この考えはやがて、狐を霊獣とする稲荷信仰と
結びついてゆくのである。
 古墳は権力者の象徴であるが、当時は霊魂も上層階級
の者のみに存在していた。一般人に霊魂は無く、死体は
野原にはふ葬られていた。「葬」とは、草で人を
おおうという意味である。京の都では、主として加茂川に
死体を投げ捨てていた。墓石の下に土葬するように
なったのは、室町時代以降に、主として浄土宗系の寺が
開創してからである。

 かつて大願寺の隣には、仙台市営の火葬場があった。
灰色の高い煙突から、人体を焼く真っ黒な煙が立ち昇って
いた。私はその煙を見ながら、近道だった称念寺の墓地
を通り、大願寺横丁のゆるやかな坂道を下って、
荘厳寺内の幼稚園に通っていた。
 親鸞上人ゆかりの称念寺門前脇には、福来心理研究所と
いう看板を掲げた家もあった。この研究所を主宰していた
福来友吉(1889〜1952)は、東京帝大で
「催眠術の心理学的研究」で博士号を取得。
1910(明治43)年からは、御船千鶴子、長尾郁子、
高橋貞子、森竹鉄子ら、念写や透視能力があると思われ
る者の実験を行い、超能力研究を行った人物である。
「貞子」という名から、映画「リング」を思い起こす
人もいるだろう。思い返すと、なんともホラーな
通学路だった。
 今では約97パーセントが火葬の日本だが、カトリック圏
のアメリカは、火葬率13パーセントと、土葬率が高い。
イギリスやデンマークも50パーセント程である。
死者が肉体と共に蘇る「ゾンビ」は、土葬的恐怖と
言えるだろう。
 死者に対する恐怖といえば、仙台心霊スポットという
噂話集成のホームページがある。旧火葬場という事もあり
、大願寺界隈にはよく「出た・見た」というコメントが
載っている。だがこの界隈に出現する幽霊にまつわる
因縁話は、単に火葬場があったからというだけのものでは
なかった。
 大願寺門前には、樹齢250年のたらよう。称念寺には
樹齢300年のきゃらぼくとカリンと姉妹いちょう。
正円寺には樹齢360年の赤松。荘厳寺には樹齢350年
の如意笠の松と、樹齢200年のもみじ。充国寺には
樹齢350年のやしおかえでという具合に、この寺域一帯
には、古樹が数多く残っている。
 古樹の存在は、空襲で焼けていない地域である事の証に
なる。1945(昭和20)年7月10日午前0時03分。
グアム島の第58爆撃隊のB29124機は、仙台湾南東
海上から仙台市街地に侵入。高度4千〜6千メートル
上空から、油脂焼夷弾による空襲を開始した。午前2時
30分頃まで、5編隊による波状攻撃を行い、市街地は
火炎地獄になり、1066名が死亡した。
 死因の大半は焼死か窒息死で、213体が身元不明遺体
だった。このうち108体が大願寺に、76体が子平町の
寿徳寺に、29体が新寺小路の松音寺に葬られた。
大願寺界隈に現れる幽霊は、どうやらこの無縁仏と
関係があるらしい。火炎地獄の恐怖と無念さに、改めて
合掌。
 そもそもB29による無差別焼夷弾爆撃を発案したのは、
第二十航空団司令官で、「爆撃屋」と呼ばれたカーティス・
ルメイ少将である。彼は、日本本土に十分な夜間戦闘機が
無く、高射砲もレーダー管制でない事から、夜間、低空に
よる焼夷弾空襲という戦法を編み出したのだった。
焼夷弾とは、火災を発生させて住民を焼き殺す事を目的に
した爆弾の事である。
 無差別都市空襲は、1944(昭和19)年11月1日
から、翌年8月15日未明まで、延べ1万7500機の
B29で、16万トンの焼夷弾を投下。死者35万人、
221万戸の家屋が焼失した(原爆被害を除く)。
東京、横浜、大阪、神戸などの大都市はもちろんの事、
中小都市までまんべんなく、丹念に空襲して
いった。
 このカーティス・ルメイ少将。戦後、日本の航空自衛隊を
育成した功績により、政府から勲一等旭日大綬章を授与
されている。戦争の理不尽さを象徴するエピソードである。

国見八景・第8景「芹沢美術館」

 私の家の向かい側に、東北福祉大学のレンガ色の校舎が、
城の天守閣のようにそびえている。子供の頃、この敷地
への出入りは自由であり、格好の遊び場だった。この
場所からは、仙台市街地はもちろんの事、太平洋の水平線
や沖を航行する船までもを望むことが出来る。
 この東北福祉大学校舎内に、芹沢_介美術館が開館
したのは、1989(平成元)年6月23日の事だった。
型絵染という技法の染物で、1956(昭和31)年
重要無形文化財保持者(人間国宝)になった芹沢_介の
長男・長介が、東北福祉大学名誉教授だった事が縁となって
の開館だった。
 芹沢は1895(明治28)年に、静岡市本通り一丁目の
呉服卸小売商・大石角次郎の次男として生まれた。
幼い頃から織物の絵柄に興味があり、美術では梅原龍三郎
、安井曾太郎、岸田劉生、中川一政、陶芸の冨本憲吉、
バーナード・リーチを好み、「白樺」を愛読していた。
 1927(昭和2)年、芹沢は朝鮮を旅して、朝鮮民族
美術館や慶州の仏国寺を訪れた。この旅の途上、彼は
柳宗悦(やなぎむねよし)の論文「工芸の道」を読み、
深く心を動かされた。以来柳宗悦は、芹沢生涯の師に
なるのである。
 柳宗悦は芹沢より6歳年上で、1889(明治22)年
3月21日、東京市麻布
区市兵衛町2―13に、海軍少将・柳ならよし楢悦の三男
として生まれた。父の楢悦は、幕末の頃、勝海舟や榎本
武揚らと共に、長崎の海軍伝習所で造船・測量・航海
術やオランダ語を学んだ人物だった。関流和算を学ぶ一方、
博物学や民俗学にも熱心だった。
 麻布台の屋敷は、現在六本木一丁目・アークヒルズ
(地下鉄南北線・六本木駅)近くにあった。広い庭には、
桃・栗・梨・葡萄・銀杏・蜜柑・無花果・梅・椿・
茶・桑などの樹木が植えられ、苺畑や温室、蓮池があった
という。趣味の料理の為の栽培だった。また楢悦は、庭の
一角に「晩香亭」という庵を設け、茶や
書画を営むという、なかなかの粋人でもあった。
 だが宗悦誕生の年、火災の為蔵書や収蔵品を焼失。
後の宗悦を思うと、なんとも惜しい。さらに3年後の
1891(明治24)年1月24日、楢悦は肺炎の為
あっけなく死んでしまう。宗悦は父の事をほとんど憶えて
いなかった。
 柳邸の近所、麻布区三河台町27に志賀直哉が住んで
いた。宗悦は学習院中等科の頃、6歳年長の志賀と出会い
親友となる。さらに高等科で武者小路実篤や
里見とんクらと出会い、「白樺」創刊の同人になる。
白樺派と称される文学潮流は、
小説の有島武夫、長与善郎、戯曲の倉田百三、詩の
高村光太郎などが加わる。
 柳は1925(大正14)年に、陶芸家の浜田庄司、
河井寛次郎の3人で、木喰仏(もくじきぶつ)を調査する
旅に出た。木喰僧は多くいるが、この場合、甲斐国
(山梨県)生まれの真言宗の僧・明満五行(1718〜
1810)が彫った木彫仏を指す。その旅の途上、柳は
「民衆の民と、工芸の芸で、民芸という言葉はどう
だろうか」と、浜田と河井に言った。二人の賛同を得た
この時から、民芸運動が始まる。
 民芸とは、労働から生まれ、日常で使われているから
こそ美しい「用の美」であり、名も無き民衆の無心から
生まれる美であるという思想を核としている。
そうした思想を集約したのが、芹沢を突き動かした
「工芸の道」という論文であったのだ。
 1926(大正15)年4月1日。柳は「日本民芸
美術館設立趣意書」という小冊子を発刊する。京都市
吉田神楽岡3の柳宗悦、大和国生駒郡安堵村の冨本
憲吉、京都市下京区五条坂の河井寛次郎、栃木県益子町の
浜田庄司が名を連ね、事務として東京市麻布区一ノ橋の
青山二郎が加わっている。
 民芸運動の機関紙「工芸」は、1931(昭和6)年
1月に500部で創刊され、やがて1000部に増刷。
100号までは月刊で、120号まで続いた。
 同じ頃、浜田庄司の陶器に惚れこんだ男がいた。
岡山県倉敷市に大原美術館を設立した、倉敷紡績(現クラレ)
社長・大原孫三郎である。彼は倉敷商工会議所で
開かれた浜田作陶展の民芸座談会で、柳や浜田と会見し、
民芸運動に共鳴した。これを契機として、倉敷で河井
寛次郎展や、新進染色家・芹沢_介展などが次々
に実現してゆくのである。
 1935(昭和10)年5月。孫三郎は東京・高島屋で
開催されていた、バーナ―ド・リーチ展に足を運んだ。
リーチは香港生まれのイギリス人作陶家で、冨本
憲吉から侘び茶の心や日本美の本質を学んだ、民芸の
同人である。リーチ展の後、孫三郎は千葉県我孫子に
柳宗悦を訪ね、日本民芸館設立資金10万円の提供
を確約した。柳が狂喜したのは言うまでもない。
 その年の暮れ、東京市目黒区駒場861番地の敷地に
日本民芸館建設が開始され、翌年10月に開館の運びと
なった。その後、倉敷にも民芸館がつくられ、
大原美術館別館には、河井寛次郎と彼を師と仰ぐ棟方志功、
浜田庄司、バーナード・リーチ、芹沢_介、冨本憲吉
などの作品が収蔵された。
 柳宗悦は1961(昭和36)年4月29日、日本民芸館
の茶の間で脳出血の為倒れ、5月3日午前4時02分、
飯田警察病院で息を引き取った。72歳だった。
芹沢_介は彼の死後20年余を生き、創作を続けた。
民芸運動の精神は、芹沢を師と仰ぐ染織家の志村ふくみ
や、作家の白洲正子らによって受け継がれ、日本美の
華を咲かせ続けている。

小説と史実の間

 吉川英治は1950(昭和25)年に、新平家物語の執筆
に着手。7年の歳月を費やし、1957(昭和32)年3月
に完成させた。作品は歴史小説の金字塔として、今も
広く読み継がれている。
 この長大な物語には、原本が存在する。鎌倉時代前期、
信濃前司行長らによって書かれた「平家物語」。
南北朝時代の作とされる平家物語の異本「源平盛衰記」。
室町時代中期の作とされる「義経記」などである。
新平家物語の骨格は、おおむねこれらの路線を踏襲して
いるわけだが、史実とは思われない部分も多く含まれて
いる。
 新平家物語では少年時代の平清盛を、ひどく貧しい
悪童として描いている。設定としては、そこを振り出しに
して栄華の絶頂を極めたほうが面白いのだが、おそらく
清盛は、巨大貿易商社の跡取りだったに違いない。
 清盛の父・忠盛は、鳥羽上皇の荘園である、
肥前国神埼荘(佐賀県神埼町)を管理していた。
忠盛は有明海に面したこの地を拠点にして日宋私貿易を行い、
巨万の富を築いてゆくのである。
 忠盛は北九州から瀬戸内海にかけての海上物流ルートを
整備し、そこで得た金銀珠玉に綾錦の類を鳥羽院や貴族ら
に贈り、平家躍進の足場を固めていった。
清盛はその後継者として、安芸守(広島県)・播磨守
(兵庫県)・大宰大弐(北九州・大宰府長官)と、ほぼ望み
通りの地域の地位と利権を得る事が出来たのも、忠盛
時代の伏線があったればこそというわけである。
 一方、源義経や背後に控える奥州藤原氏に関しても、
多分に誤解や理解不足がつきまとう。奥州藤原氏は、
現在の東北地方全域から新潟県あたりまでを勢力圏
とし、日本の半分と言われていた大国である。
その国の情報活動と国際貿易活動の一切を、金売りの
吉次という一商人に象徴させる事には、かなり無理がある。
 実際の情報機関としては「平泉第(ひらいずみだい)」と
いう、奥州の京都大使館が初代・清衡の頃から存在した。
場所は「かどで首途八幡宮(京都市上京区智恵光院通
今出川上ル桜井町102)」にあった。長官として、
検非違使左衛門尉・藤原秀清・公澄兄弟の名がある。
 平泉第では、中央貴族や寺社の情勢を探り、必要と
あれば買収による政治工作も行った。また仏師や絵師・
高僧などの人材を求め、平泉に送る役目もあった。
後に鎌倉の頼朝が後白河法皇に対し、奥州追討の院宣を
求めた時、院が頑として拒否した背景にも、平泉第の
影響力があったと思われる。
 平泉は3代秀衡の頃、京を凌ぐ人口15〜20万人
だったと思われる。そこには、禅房300余の中尊寺、
禅房500余の毛越寺、観自在王院や無量光院
などの寺がある。僧だけでもかなりの数なのだが、
彼らこそ実質的な情報・貿易活動の担い手だったのだろう。
 彼らを「かんじんひじり勧進聖」と言う。寺は貿易実務
や通訳養成、航海術などを教える学校の機能も有して
いた。舞や芸能も行ったし、薬売りやアメ売りに変じて
諸国を遊行したのも彼らである。また、中尊寺は
天台宗だが、比叡山延暦寺を中心にした天台僧の
情報ネットワークを活用していたという事もある。
 元暦元(1184)年2月22日というから、木曾義仲が
源義経軍に敗れて戦死した翌月。藤原秀衡は上村彦三郎ら
12人を、美濃国石徹白(いとしろ・岐阜県郡上郡白鳥町)
の地に派遣した。ここは長良川上流の山深い高地で、
福井県境も近い。白山参りの東海口として、白山開基僧・
泰澄が開いた白山中居神社がある。
 日吉・白山神社は、平泉の東方鎮守である。秀衡は
ここに虚空蔵菩薩を奉献する為に、上村12人衆を
遣わしたのである。が、それは表向きの事。彼らの
目的は、木曾義仲亡き後の、信越北陸方面の情勢を探る
事にあった。事実彼らは石徹白に社殿を建て、奥美濃に
留まっている。
 歌舞伎十八番の「勧進帳」と言えば、義経・弁慶主従
が鎌倉方の追っ手を逃れ、加賀国安宅関において
富樫左衛門尉と弁慶が丁々発止の問答を繰り広げる物語
である。しかし石川郡の豪族が富樫を名乗るのは、
南北朝以後の事である。
感動的な名場面ながら、フィクションの可能性の方が
高い。
 義経一行が比叡山や吉野・高野山に潜伏した後、
奥州に下るルートには諸説ある。近畿の三関(愛発・
不破・鈴鹿)は、鎌倉方が厳重に固めている。東海道は
陸路も海路も危ない。しかも安宅関を通らずに、越中・
越後方面に抜けられそうなルートが、かろうじて1本
だけある。それが長良川から石徹白を経て、白山参りの
修験の道を行き、庄川を下るルート。ここに秀衡直属の
家臣団がいるというのは、とても偶然とは思えない。
 白山神社は平泉の東方鎮守と書いたが、他にも南方の
祇園社と王子社、西方の北野天神と吉野修験の金峰山寺、
北方の熊野社と稲荷社が鎮守として祀られている。
これが意味する事は、1つは義経の逃走ルートと重なる
事。もう1つは修験は金銀銅鉄や水銀など、山に産する
鉱物を司るという事。奥州藤原の生命線である。
これら天台と修験の裏ネットワークに自在に活用して
いたのが、奥州藤原「日高見国」というわけである。

 日本は松のくにであると、「この国のかたち」の中で
司馬遼太郎が述べている。静岡県清水市の名勝地・三保の
松原には、天女が舞い降りたという「羽衣の
松」がある。このように、伝説や歌枕と共に親しまれている
「名のある松」は、全国に数多くある。
 「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と言ったのは、
俳聖の松尾芭蕉である。また「野にいで出よ。野から学べ」
と語ったのは、芭蕉と同じ伊賀上野に生まれた、
書家の榊莫山である。莫山先生と芭蕉を尊敬する私は、
それではと、野に出て松から学ぶ事にした。
まっ、粋狂と言うところだろう。

 仙台市の四里程南に、岩沼という旧宿場町がある。
奥州街道(国道4号線)と浜街道(国道6号線)の追分
(分岐点)であり、竹駒神社の門前町でもある。竹駒
神社は日本五大稲荷の1社であり、たけくま武隈稲荷明神
とも言う。創建は平安時代の承和9(842)年と、
かなり古い。うか穀霊のみたま倉稲魂という、難しい
名の農業神を祀っている。
 現在、境内中央にデーンと建つ彫刻だらけの古びた
唐門は、天保13(1842)年の建築だから、元禄時代
に当地を訪れた芭蕉は、これを見ていない。
芭蕉が見たのは「武隈の松」である。
 武隈の松は、竹駒神社境内北側の外郭にある。
根元から二股に分かれている
様子から、「二木の松」の別名がある。
「今はた 千歳のかたちととのほひて、めでたき松の
けしきになん侍りし」と、300年前にこの松を見た
芭蕉が「奥の細道」で、1000年前の姿を偲ばせる
めでたい松だと述べている。
 芭蕉はこの松の事を「歌枕」として知っていた。
たとえば平安時代の漂白歌人・能因法師(988〜?)
の歌 ━ 武隈の松はこのたび跡もなし ちとせを
経てや 我は来つらむ(後拾遺和歌集) ━
 能因法師がこの地を訪れたのは、竹駒神社創建の
150年後の事である。この時すでに、武隈の松は古樹・
名木として多くの歌に詠まれ、有名だった。
陸奥守・藤原元善が植え、野火で焼けた後、源満仲や
橘道貞が植え継いできた松だった。
 ところが実際に来てみると、陸奥守・藤原孝義なる者が
木を伐らせ、名取川の橋杭にしてしまって跡形もないじゃ
ないかと、嘆いているのである。かくして藤原孝義は、
松の木一本伐らせたばかりに、1000年後までこうして
語り継がれる悪人になってしまった。

 芭蕉は「古人も多く旅に死せるあり」として、自らも
古人の如く漂白の旅に出ようと、奥の細道冒頭で語った。
その古人とは、能因法師であり西行だった。
芭蕉は芦野の里(栃木県那須郡那須町芦野)の「清水
流るるの柳」の前に立つ。その柳は500年前に、
西行が木陰で涼を求めた柳だった。
「西行もこの場所に立ち、この柳の木陰で涼んだのだ」と、
芭蕉は感激する。500年という時の隔たりを超えて、
ある種の一体感が生まれたのだろう。
 私もまた、芭蕉と300年の時を隔てて、武隈の松の
前に立った。そして、ずっしりと密度の濃い幹に触れて
みた。その瞬間、松の霊気が私の全身を貫いた。
 樹齢100年以上の古樹には、必ず神気・霊格が宿ると
語ったのは、樹木医の草分け・山野忠彦である。松は
総じて瞑想的な樹木だが、奥州の大地にしっかりと根を
張った「武隈の松」は、1000年を1日として生きて
いるような瞑想者だった。私と芭蕉と松と奥州の地霊が、
渾然一体となったような眩暈に襲われた。
 それは言葉として表現出来ない「直覚」だった。
なるほど、松の事は松が教えてくれる。それを体験した
ければ、私同様の「粋狂」で、古樹を探して会いに行き、
手で触れて対話してみるとよい。古樹との間に、親密な
友情が生まれる事だろう。たぶん。

青葉城

 仙台の歴史散歩と題してサイクリングに出かけた。
起点は太白区の愛宕山である。向山4丁目の登り口から、
降りて歩くのが賢明と思われる急坂が100m程続く。
頂上には、江戸初期創建の愛宕神社がある。北側眼下に
広瀬川が流れ、足もとは80〜100mの断崖になって
いる。
 仙台の大雑把な地形は、この愛宕山から西は丘陵地帯。
東は肥沃な仙台平野である。陸奥国府・多賀城から利府・
岩切・余目・福室・苦竹・木ノ下・北目・郡山・日辺・
今泉などの水田開発は、少なくとも奈良時代までは
遡る事が出来る。
 1189(文治5)年9月、源頼朝が平泉の奥州藤原氏を
滅ぼした後、仙台平野の支配者は留守氏と国分氏であった。
伊沢家景は陸奥国留守職に任ぜられて多賀城へ。
以後留守を姓として、岩切を本拠にして勢力を拡大させた。
しかし南北朝の頃、奥州探題として下向した吉良貞家と
畠山高国が対立し、畠山に味方した留守氏は岩切合戦に
敗れて没落。吉良に味方した国分氏が勢力を拡大した。
戦国期、両者は宿敵として戦い続けた。
 国分氏とは、奥州遠征軍海道方面(常磐道)総大将・
千葉介常胤の5男・胤通が、宮城郡国分荘(仙台市)を
賜り、郷六に居を構えた事に始まる。郷六とは愛宕山から
西に直線で約7km。青葉山西山麓の低地で、現在は
近くに宮城インターチェンジがある。
 郷六には仙台藩四代藩主・伊達綱村の別荘があり、
青葉城二の丸からの間道が通じていたという。仙台藩
では愛宕山・大年寺山を東端とし、向山丘陵・八木山・
青葉山の山塊群を天然の城塞に見立てて、郷六辺りを
西端とする城郭構想を持っていたらしい。
 胤通はその後、青葉山の「千代城」に移り、国分氏の
祖となった。千代城は伊達政宗入府までの400年間、
国分氏の本拠であった。国分一族には、郷六・森田・
八乙目・北目・南目・朴沢・鶴谷・松森・粟野・古内・
坂本・白石・堀江各氏の名がある。現在の地名にも名を
残す通り、支配地域は七北田川上流域と、広瀬川下流域
を軸にした仙台市全域に及んでいたと思われる。
1587(天正15)年以降は伊達家臣団に組み込まれ、
「国分衆」として仙台開府に際し重要な役割を
担う事になる。
 伊達政宗の叔父・国分彦九郎盛重は、宮城郡国分
小泉村に要害を築いたとある。
愛宕山の東2kmにある、若林区古城(現・宮城刑務所)
辺りである。この周囲が政宗入府以前の町場(国分)だった。
政宗は晩年、ここに若林城を建てて住まう事になる。
 さらに古城から広瀬川を渡った名取郡北目には、
粟野大膳の居城・北目城があった。1591(天正19)年
9月、伊達家は国替えで米沢から岩出山に移った
わけだが、この時北目城には屋代景頼が城主として入った。
 1600(慶長5)年5月、徳川家康は会津の上杉景勝
討伐を命じた。6月14日に大阪を発した伊達政宗は、
中山道から常陸・相馬を経て7月12日に北目城に
入った。そして軍勢を整えるとすぐさま上杉領となって
いた刈田郡の白石城を攻撃。25日に落城させた。
 この時政宗は家康に対し、戦闘報告と共に新城の
築城許可を願い出ている。その候補地は4つあったと
される。第一に石巻・日和山の葛西城跡。後に川村
孫兵衛の北上川付け替えという大土木事業により、
南部藩の盛岡から大崎平野の大穀倉地帯を経て河口の石巻
までの水運が開けるわけだが、そうした交易の利便性
を考慮した、秀吉好みの商都になっていただろう。
 残る3つは仙台平野を視野に入れている。源頼朝が
奥州藤原氏を討つべく大軍を発した時、藤原泰衡が本陣に
した鞭楯(むちたて・宮城野区榴ヶ岡公園)。小高い丘
からは宮城野を一望出来る。政宗はこの地を最も望んで
いたと言われる。もしこの地に平城を築いていれば、
江戸のような運河を張り巡らせた水の都になっていたかも
しれない。
 あと2つは大年寺山(野手口)の茂ヶ崎城跡と、青葉山
の千代城跡である。家康は9月15日に関が原の合戦に
勝利した後、国分氏の千代城再興を許可した。
12月24日、甲牛の吉日を卜して縄張り始めを行い、
政宗は北目城から青葉山の高台64mにある千代城に
入った。
 国分氏が城の名を「千代」としたのは、青葉山に千躰物
を祀るお堂があった為と言われている。政宗は「入りそめし
 国ゆたかなる みきりとや/ちよ千代と限らじ 
せんたいの松」と歌を詠み、お気に入りの唐詩選から
「仙台初めて見る五城楼」の詩を引用して、城と街の名を
「仙台」と改めた。
 1601(慶長6)年1月11日、後藤孫兵衛信康と
川島豊前宗泰を総奉行として普請開始。石垣衆は茂庭
石見延元を奉行として、棟梁に鹿野清左衛門、黒田
八兵衛、能島与右衛門。使用された石は郷六の北・
大石ヶ原や国見峠から採石された安山岩質玄武岩
1万2000個あまり。
 また城下の測量や絵図の作成も同時に行われ、翌年の
2月から5月にかけて、
岩出山城下から家臣や町人の引越しが行われ、名実共に
仙台開府となったのである。
 おっと、すっかり愛宕山に長居してしまった。仙台の
語源となった千躰物のお堂も拝んだ事だし、これから
向山と八木山を登って、青葉山本丸(天守台)を目指すと
しますか。あの有名な伊達政宗騎馬像を見て、名物の
「ずんだシェイク」でも飲もうではないか。

校歌

 ♪春高楼の花の宴♪と、漢詩調の格調高い名曲「荒城の月」
の作詞者・土井晩翠は、1871(明治4)年10月23日、
陸前国宮城郡仙台北鍛冶町902番屋敷(現・仙台市青葉区
木町通2丁目)に生まれた。
 1896(明治29)年、東京帝国大学英文科入学。同期に
上田敏、先輩に夏目漱石がいる。4年後に仙台の旧制二高
(現・東北大学)に英語教授の職を得て赴任。
噂によると土井の英語には、ズーズー弁のなまりがあったと
いう。
 土井は詩集「天地有情」が有名だが、全国各地の校歌の
作詞を数多く手がけている。なかなか渋い仕事だが、
校歌とは世代を超えて歌い継がれてゆく、隠れたロング
セラーと言える。あなたの、あるいはあなたの知り合いの
出身校はありますか?

(市町村名は平成の大合併以前の名前を使用・・・
これも歴史です)

○北海道標津郡標津町「薫別小学校」伊達市「伊達小学校」
 紋別郡遠軽町「遠軽高校」岩見沢市「岩見沢東高校」
 札幌市豊平区「北海高校」中央区
 「札幌西高校」室蘭市「室蘭商業高校」
 函館市「函館中部高校」「旧制函館中学(北大水産学部)」
○青森県黒石市「中郷小学校」三戸郡名川町「名久井小学校」
 八戸市「鮫小学校」「鮫中学校」「柏崎小学校」
 青森市「青森商業高校」南津軽郡平賀町
 「柏木農業高校」弘前市「青森県師範学校(弘前大学教育学部)」
○岩手県盛岡市「岩手県女子師範付属国民学校」
 宮古市「宮古小学校」釜石市「小佐野小学校」
 「釜石商業高校」東磐井郡藤沢町「黄海小学校」久慈市
 「久慈農林高校」盛岡市「岩手高校」「盛岡工業高校」
 「岩手医科大学」「岩大工学部」花巻市「花巻農業高校」
 北上市「黒沢尻北高校」胆沢郡胆沢町「水沢農業高校」
 陸前高田市「広田水産高校」一関市「一関第二高校」
 「一関農業高校」「一関工業高校」
○宮城県登米郡東和町「錦織小学校」「米川小学校」
 登米郡中田町「上沼中央
 小学校」「浅水小学校」登米郡迫町「北方小学校」
 登米郡登米町「登米小学校」登米郡南方町「南方小学校」
 登米郡豊里町「豊里小学校」本吉郡津山町「柳津小学校」
 加美郡宮崎町「宮崎小学校」玉造郡岩出山町「岩出山小学校」黒川
 郡大郷町「明星中学校」古川市「古川第一小学校」
 「古川商業高校」加美郡中新田町「鳴瀬小学校」
 遠田郡小牛田町「中埣小学校」志田郡松山町「松山
 小学校」牡鹿郡牡鹿町「鮎川小学校」黒川郡大和町
 「吉岡小学校」塩釜市「塩釜市立第二小学校」
 仙台市「福岡小学校」「片平丁小学校」「木町通小学
 校」「立町小学校」「北五番町小学校(仙台二中)」
 「東六番町小学校」「北六番町小学校」「秋保小学校」
 「宮城学院(小中高)」「尚絅女学院(中高短大)」「宮城
 教育大学」「旧制二高(東北大学)」「東北薬科大学」
 「仙台商業高校」「仙台高等工業・土木科」
 「常盤木学園高校」「県立農業高校」名取市「高館中学校」
 「下増田小学校」岩沼市「玉浦中学校」柴田郡柴田町
 「船岡小学校」白石市「斎川小学校」栗原郡若柳町
 「若柳高校」栗原郡栗駒町「岩ケ崎高校」遠田郡
 南郷町「南郷農業高校」古川市「古川女子高校」
 気仙沼市「気仙沼町民歌」「気仙沼大島漁業組合歌」
 登米郡佐沼町「佐沼町々歌」・「キリンビール仙台工場歌」
 「東北特殊鋼(株)社歌」
○秋田県大館市「大館鳳鳴高校」秋田市「秋田高校」
 横手市「横手高校」
○山形県鶴岡市「朝賜第一小学校」「鶴岡工業高校」
 天童市「天童市立第二小学校」西村山郡朝日町
「大谷小学校」上山市「中川小学校」「西郷第一・第二
 小学校」「上山農業高校」酒田市「酒田商業高校」
 「酒田東高校」東田川郡余目町「余目高校」
 東田川郡藤島町「庄内農業高校」鶴岡市「鶴岡工業高校」
 村山市「村山農業高校」山形市「山形東高校」
 「山形工業高校」寒河江市「寒河江高校」
 米沢市「米沢工業高校」
○福島県大沼郡会津高田町「高田小学校」
郡山市「熱海小学校」「高川小学校」
 「郡山商業高校」「郡山商業高校」南会津郡伊南村
 「伊南小学校」「伊南中学校」いわき市「平工業高校」
 「勿来第二小学校」「平第一中学校」「磐木女子
 高校」 福島市「福島高校」二本松市「安達高校」
 喜多方市「喜多方商業高校」
 河沼郡会津坂下町「会津農林高校」「会津坂下第一中学校」
 双葉郡双葉町
 「双葉中学校」岩瀬郡鏡石町「岩瀬農業高校」
 白河市「白河第一小学校」
○茨城県常陸太田市「太田第一高校」
 結城市「結城第一高校」筑波郡谷田部町
 「谷田部高校」行方郡潮来町「潮来高校」
○埼玉県北葛飾郡吉川町「三輪野江小学校」
 浦和市「浦和市立高校」
○千葉県千葉市「千葉県女子師範学校(千葉大教育学部)」
 木更津市「木更津高校」
○東京都杉並区「桃井第四小学校」目黒区「岩倉高校」
 「都立大学」「東京工業大学」文京区「郁文館中・高校」
○神奈川県横浜市神奈川区「横浜専門学校(神奈川大学)」
○新潟県燕市「小中川小学校」南魚沼郡塩沢町
 「塩沢小学校」「加茂農林高校」
 北蒲原郡水原町「水原高校」
○富山県富山市「富山工業高校」
○福井県遠敷郡「遠敷農林高校」小浜市「若狭高校」
○長野県上田市「上田東高校」
 松本市「松本高校(信州大学)」岡谷市「岡谷工業高校」
○静岡県清水市「清水東高校」浜松市「浜松高等工業高校
 (静岡大学工学部)」島田市「島田商業高校」
○愛知県半田市「半田高校」名古屋市瑞穂区「瑞陵高校」
 新城市「新城高校」
○滋賀県近江八幡市「八幡商業高校」彦根市「彦根工業高校」
○京都府宮津市「宮津高校」京都市「立命館大学学生歌」
○大阪市淀川区「北野高校」豊中市「大阪大学」
○兵庫県神戸市「神戸商船大学」姫路市「神戸大学」
○島根県太田市「太田高校」
○山口県吉敷郡小郡町「旧制小郡中学」
○愛媛県宇和島市「宇和島東高校」
○福岡県北九州市門司区「豊国学園高校」
 筑後市「八女工業高校」
○長崎県大村市「大村高校」
○大分県大分市「大分高等商業高校(大分大学経済学部)」
○韓国原川市「原川公立農学校」
○満州国・関東軍独立守備隊の歌

八甲田山

 冬は寒い。北国は雪に埋まり、息をひそめる。今から
約100年前の1902(明治35)年1月25日、青森
歩兵第五連隊210名中199名が、青森県八甲田山中
で凍死するという事件が起こった。新田次郎の小説
「八甲田山」で有名になった、「死の雪中行軍」である。
ロシアとの戦争を想定した、耐寒演習だった。
 1月20日、福島大尉率いる弘前連隊第一大隊第二中隊
の38名が、雪の降る弘前を出発。3日後、山口少佐
率いる青森連隊第二大隊210名が、雪の青森を出発した。
 弘前連隊の福島大尉は、大吹雪に迷い込んだならば
凍死か窒息死が当然とされる白魔の八甲田山を行軍するに
あたり、微に入り細にわたり、徹底した用意周到さで
事にのぞんでいる。

一・軍靴は堅牢にして寛裕なるを用うべし。決して水の
 漏入する物を用う
 べからず。(3日目からわら靴・かんじきを使用)
二・足はよく洗い、爪を切り、清潔にし、油脂を塗るを
 可とす。かねて
 凍傷の恐れある者は、凍傷膏を医官に請求してこれを
 塗るべし。
三・靴下はなるべく新品を用い、常に乾燥させるを可とす。
 毛製の靴下なれ
 ばなおよろしい。(実際には靴下を重ねてはき、唐辛子をまぶし、油紙で
 足もとを包んだ)
四・手足が冷えて知覚を失ったときは、布でよく摩擦した
  のち、徐々に暖めること。決して急速に暖めては
 ならない。
五・河川を渡るときは裸足で渡り、渡り終えてから水分を
 よく拭き取り、靴下をはくこと。濡れた足のまま靴を
 はいてはならない。小便は風に向かってする事はさけ、
 最後の一滴まで十分しぼる事として、「股こすり」
 「チン振り」と名づけた。
六・シャツが濡れたときは、予備のものに着替えること。
 腹巻は必ず着用すべし。
七・水筒には一度沸騰させ温湯を容れるように心掛ける
 こと。汗をかいて喉がかわいた時でも、急に多量の
 水を飲んではいけない。
 (水筒の水を七分目にして、少量のブランデーを加えて
 凍るのを防いだ)
八・空腹のため疲労したときは、小隊長の許可を受けた
 うえで、予備の餅を食べること。行軍中は飲酒を
 厳禁する。凍って寒さの厳しいおり、雪中で
 睡眠すると凍死のおそれがある。それで小休止のおりの
 睡眠を禁止する。
 (握り飯や餅は油紙にくるみ、腹巻に巻きつけて凍るの
 を防いだ)
九・日光が雪に反射するとき、眼病にかかることがある。
 予防のため眼簾、
 または有色眼鏡を使用すること。
十・多量の雪を食べたり、氷を噛んで胃を冷やしては
 ならない。
十一・危険や困難に直面したおりは、沈着のうえにも
 沈着に行動すること。
 行軍中に疲労した者あるときは、互いに助け合うこと。

 一方、青森連隊の山口隊は、薪60貫(220s)・
木炭15貫(54kg)・缶詰肉35貫(130s)・精米
13斗・漬物6貫(22s)・釜・炊事用具・
スコップなどを積んだ15台のそりを、60名の兵卒が
曳いての行軍だった。だが、上り坂や吹雪の為、前進が
困難になってそりを放棄。荷は兵卒が背負った。そりを
曳いてふんばった時、わら靴や手袋がびしょ濡れとなり、
手足の凍傷者が続出した。
 この時日本列島を包んでいた強烈な寒気団は、
北海道上川で零下41度を記録するほどの強力なもので、
青森は大雪。八甲田山中は青森湾からの海風と、
竜飛岬を通過する北西風が山腹で互いに衝突して、
猛吹雪になっていた。気温は風速1メートルにつき1度
下がると言われているので、少なくとも零下20度が
現地の気温だっただろう。
 かくして山口隊は、ホワイトアウトの状態に陥り、
力尽きて凍死者続出となったのである。6月になって
発見された死体の大半は、つまご(わら靴)や手袋をつけて
おらず、無帽だった。手足から凍傷にかかった為、
ズボンのボタンをはずせず、ズボンの中に放尿したため、
凍傷が激化したのだった。
 山口隊の生存救出者は17名。山口少佐ら5名は
青森の病院で凍傷の為死亡。神田大尉は責任をとり。
現地の雪中で拳銃自殺。五体満足なのは、
伊藤中尉・倉石大尉・長谷川特務曹長の3名だけであった。
 だが彼ら3名も、1905(明治38)年3月4日、
日露戦争の乃木第三攻撃隊として出陣し、二零山の
夜戦において全員戦死した。また、38名無事生還を
果たした弘前連隊の福島中尉も、黒溝台の会戦において
戦死した。命の重さ・尊さを誰よりもよく知っている
はずの彼らも、戦場では二束三文のその他大勢に
すぎなかった。


 毎年の事ながら、桜前線北上のニュースが流れる今頃
になると、妙に心がざわめく。これが、古代より連綿と
して桜を愛でてきた、日本人の民族魂というものだろう
かと、誇大に思う事もある。
 桜の名所は全国に数々ある。私が見た中で圧巻だった
のは、やはり皇居千鳥が淵あたりの夜景だろうか。
視界一面、染井吉野の桜・桜・桜・・・
現実とも夢幻ともつかぬ、淡桃色の眩暈の中に身を置いた
感覚だけになれる場所の一つだと思う。
 現在目にする桜の多くは、染井吉野という品種で
ある。パッと咲いてハラハラと散る姿が、はかなくも
美しい。だがこの品種の背景に、政治と洗脳の悪臭を
感じると、単に美しいとばかりは言っていられなくなる。
 染井吉野は、明治政府が国策として全国の城跡などに
植林したもので、遠く平安から江戸期にかけて歌に
詠まれた桜は「山桜」だった。歌人たちは、咲き匂う
生命の輝きを詠んだのである。「散る桜」の美学の
背景には、日本国民を戦争に駆り立てた政治家や軍人
たちの思惑が反映されているのである。

 山桜の名所といえば、奈良県吉野熊野国立公園の
一部である「吉野山」だった。修験道の開祖とされる
役小角(えんのおずぬ・637〜701)が、桜の木に
蔵王権現の像を彫り、大峰山を開いた事から、桜の
木を御神木として愛護したのがそもそもの始まりだと
言われている。全山の桜は10万本とも言われている。
「吉野山 花の盛りは限りなく 青葉の奥も 
なおさかりにて」と、平安末の歌人・西行は、
吉野の桜の輝きに圧倒されている。その様子
が今に伝わってくる。

 西行は生涯に2度、奥州・平泉(岩手県平泉町)の
藤原秀衡のもとに旅をしている。当時の平泉は、
人口約15万人。京・鎌倉と並ぶ北の都だった。
中尊寺の金色堂に象徴される黄金文化が、満開の桜の
ように咲き誇っていた。
 平泉から北上川を渡った所に、牛の背にも似た標高
596メートルの、束稲山(たばしねやま)という山が
ある。全山に1万本以上の山桜が植林されていた。
「ききもせず 束稲山のさくら花 吉野の外に 
かかるべしとは」
西行は、吉野山以外にもこのような桜の名所があった
事に、感嘆した歌を残している。
 西行はもともと、佐藤義清という名の武士だった。
平清盛とほぼ同期である。清盛は保元の乱・平治の乱を
勝ち抜いて頭角を現し、自らは太政大臣に昇りつめ、
平家一門も隆盛を極める。だが、風前のともし火だった
源氏が次々に挙兵し、清盛死して4年後、平家一門は
壇ノ浦の海中へ没したのである。
 さらに源頼朝は、奥州へ出兵して平泉の藤原王国を
滅ぼし、鎌倉幕府を成立させる。西行はその全てを
見届けた。まさに諸行無常・諸業流転の、変転に次ぐ
変転の時代だった。

「願はくは 花のしたにて春死なん そのきさらぎの
望月の頃」
西行はその歌の通り、満月の夜、満開の桜のもとで
73歳の生涯を閉じたと伝えられている。
 
 明治政府は、西行が愛した吉野の桜3万本の伐採を
命じた。吉野桜は封建制度の象徴であり、仏教的御神木
などとはけしからんというのが理由だったらしい。
むろん、平泉・束稲山の山桜も伐採された。
 桜を愛でる心無き「薩長の馬鹿ども」は、軍備を
増強し、朝鮮半島や台湾への侵略やら、日清戦争に
血まなこになる。日本美術院を創設した岡倉天心は、
著書「茶の本」の中で、昔文芸を楽しんでいた時の
日本は野蛮な国と呼ばれ、侵略戦争を始めてからは
近代国家と呼ばれていると、皮肉を込めて語っている。
その「近代国家」は、自己肥大したあげく、大東亜戦争
で自滅してゆくのである。

 いつまでも、桜花を愛で、風雅を味わう日本人であって
ほしいものだ。
それと、美酒を少々・・・西行に乾杯。

ユネスコ外伝

 「思い起こせ。あの時、きみは一人だった」という
言葉がある。いつもそうだった。新しく何かが始まる時、
そこにはたった一人の、やむにやまれぬ熱い想いが
あった。そして少数の理解者。いつもそこから動き出す。
 47歳のマザー・テレサが、単身カルカッタの
スラム街に入った時、持っていたのはカバン一つと
5ルピー(150円)だけだった。この時世界は、彼女が
何者なのかを知らなかった。
 アンリ・デュナンが「赤十字」の構想を説いた時、
人々は「夢物語」だとして相手にしなかった。
 「たった一人の熱い想い」が数多く積み重なってゆく
時、新しい時代が生き生きと動き出す。


 ヒトラー、スターリン、ポル・ポト、東条英機などの
政治指導者は、いずれも何らかの片寄った主義主張に
凝り固まっていた。彼らが政治・軍事的行動以外で共通
しているのは、まるで申し合わせたように「文化」に
対して制限を加えるか、弾圧を行っているという事実で
ある。
 彼らは自らの枠の中で作り上げた、一元的価値観で
しか判断する能力を持たなかった。「あれか、これか」
と「選択」し、異質なものは「排除」した。
多様で異質な価値観を取り込んで成長してゆく余裕など、
まるでなかったのである。彼らは時代を陰鬱な色に
染め上げ、人々は笑いを失い沈黙した。「文化」
の側からすれば、彼らは「愚鈍なおじゃま虫」に
すぎなかった。
 権力や暴力という「力」を手に入れた「おじゃま虫」
たちは、その力を行使して、民衆を自らの偏狭な価値観に
従わせようと、あらゆる努力を試みた。よけいなお世話と
いうものである。
 本質的に愚鈍な彼らは、歴史から学ぶという能力を
持っていない。いまだかつてただの一度も、暴力を
行使した権力が長続きした事などない。民衆が
求めているのは、自由で豊かな生活なのだ。自由の敵で
ある彼らを、民衆は地獄の底深くに叩き落す。
 近年では、宗教的独裁者になりそこねた麻原彰晃
(本名・松本智津夫)という男がいる。彼もまた愚鈍だった。
ピラミッド型のヒエラルキーを作り、頂点に君臨する
ことを望む。そして「私は偉い。私は正しい。
私は絶対だ」とほざく。
「私は正しいのだから、私に反対する者は間違っている。
ゆえに消滅してもかまわない」という論理を展開する。
 ヒトラーや麻原に代表される独裁者集団は、決まって
人々の自由意志を奪い、「力」で物事を解決しようとする。
愛と自由は息をひそめる。こうした環境では、ロクな
文化は生まれない。第二次世界大戦中のドイツや日本から
、文化の名に値するものを見つけ出すのは困難な作業だ。
幼稚な歴史認識でヒトラーを尊敬した「オウム」という
集団は、汚物と毒物だらけの「王国文化」しか生み
出せなかった。
 だが自由な風が吹きはじめると、「文化」は身に
ついた汚物や泥をはらいのけ、生き生きと成長してゆく。
人は愛を歌い、生命を踊る。わいわいと、うるさい
くらいに。こうした中から、洗練された美も生まれて
くるというものである。

 1945(昭和20)年8月15日。日本が無条件降伏し
戦争が終わった。
全国どこへ行っても、アメリカ軍の空襲によって一面の
焼け野原だった。誰もが食糧不足に悩まされ、空きっ腹
をかかえ、その日を生きる事で精一杯だった。
 一方、アジア全域から日本本土へ引き揚げて来る
「復員」も始まった。中国大陸だけでも、約400万人
の日本人がいた。上田康一は上海の日本大使館で
終戦を迎えた。翌1946(昭和21)年4月、
日本本土へ。外務省職員だった彼は、終戦連絡事務局
連絡官として仙台市に赴任してきた。仙台も大空襲によ
って、焼け焦げた建物が残る荒れ果てた町になっていた。
 文化班のメンバーとしてGHQとの交渉にあたっていた
上田は、11月25日の朝日新聞の囲み記事を、
食い入るように読んだ。
「これだっ。」
焼け野原の中で暮らし、精神まで腐りかけていた上田は、
新聞記事に一筋の光明を見出した。
「ユネスコ・・・」
 記事は、フランスのパリ・ソルボンヌ大学で19日
から開催されている、第一回ユネスコ総会にまつわる
外電だった。パリは今「ユネスコの月」と呼ばれ、
絵画展や映画祭、音楽祭や科学講演などが毎日開催
されている、と紹介されていた。
 ユネスコ(国連教育科学文化機関)は、1945年
11月に、アメリカやイギリスの文化人や政治家が
ロンドンに集まって会議を開いた際、戦後の国際社会
の為に設立を決めた、国際連合の付属機関である。
「文化の交流と相互理解を通して、コツコツと地道な
平和の地固めの仕事をする」のが目的だった。
第一回総会には、後の文化大臣・アンドレ・マルローや、
哲学者のポール・サルトルらが出席した。
 記事を読んだ上田は、日本にもユネスコを作ろうと
考えた。
「文化を踏み潰して、軍国主義の教育で突っ走ってきた
結果がこれだよ。文化の復興と国際交流による相互理解、
それに新しい教育が必要なんだよ。」
 上田はまず、文化班の同僚にユネスコを紹介し、
その必要性を説いた。もと満州国外交部に勤務していた
榛葉(しんば)英治が、敏感に反応した。彼は戦後、
妻の実家がある仙台に来ていた。上田も榛葉も、まだ
20代の血気盛んな年頃だった。
「俺たちだけだと、世間的な重みに欠ける。何せ国連
だからな。」
 榛葉が組織作りにかけまわった。同じ文化班の
村岡勇が、恩師の土居光知東北大学教授を紹介した。
上田と榛葉は、土居を「仙台ユネスコ協力設立準備委員
会」の委員長に担ぎ上げる事に成功した。準備委員には、
桑原武夫東北大学助教授など、仙台の文化人が名を
連ねた。
 上田は発足趣意書を起草した。1947(昭和22)年
7月19日、東北大学講堂に市民600人を集めて、
「第一回民間ユネスコ運動世界大会」が開催され
た。
「仙台ユネスコ協力会・発足にあたっての声明・・
武力を棄て去った日本人は、世界平和を望み、平和
促進の文化運動に参加して、何らかの貢献をしたいと
切実に願うようになった。 日本人は過去の態度を
改め、真理愛好の精神と、世界文化に対する将来の
希望を抱いて、新しい国の歩みを始めている。
─戦争は人々
の心の中で始まるから、平和の守りも人々の心の中で
打ち立てられなければならない─とのユネスコの主旨は
、今次の大戦の経験によって、日本人が最も痛切に
感ずるところのものである。
 そして特に、この戦争を拒否し、平和を盛りたてる
運動が、国家の指導者と少数の代表者に任せて置かれる
べきでなく、全国民の各々の心の中において、
いま即時に始まらなければならないと思う。これ、
日本が公式にユネスコに参加出来るに先立ち、この心の
準備として、またおのずからなる要求として、ここに
ユネスコ協力会がつくられた理由がある。われわれは
かかる運動が、やがて日本全体のものになることを
期待している。さらにまた、われわれのこの努力に対し
て、平和を愛する世界の人々の同情と支援を期待して
やまないものである。
 1947(昭和22)年7月19日・仙台ユネスコ
協力会 」

 物資不足で「紙」がなかった。上田は発足趣意書を
障子紙に墨で書いた。もう一通を英文に翻訳し、やはり
障子紙で作った封筒に入れ、パリのユネスコ本部宛
に発送した。
 全てはここから始まった。同年11月、メキシコ市で
開催された第二回ユネスコ総会において、上田の起草
したメッセージが、イギリスの生物学者にして事務
局長のジュリアン・ハックスレー卿によって読み上げ
られた。日本の地方都市・仙台に誕生した世界初の
民間ユネスコ運動組織は、このような経緯によって
世界から公認された。日本が国としてユネスコに加盟
するのは、これから4年後の1951(昭和26)年の
事である。

 今ユネスコと言えば、「世界遺産条約」の機関として
知られている。この条約は、1972(昭和47)年の
ユネスコ総会で採択されたものである。ピラミッドや
万里の長城など、人類の文化遺産や、人類の責任に
おいて大自然を守ろうという主旨の条約である。
2001年5月現在、世界162カ国が条約に加盟し、
文化遺産529、自然遺産138、文化自然(複合)
遺産23が登録されている。
 日本では、聖徳太子ゆかりの「法隆寺地域の仏教
建造物」、原爆投下の第一目標だった「古都京都の
文化財」、条約指定によって無意味な県道づくりの
難からのがれた「青森・秋田・白神山地のブナ原生林」
、環境文化村づくりで自然と人間の新しい関係性を
目指す「屋久島・縄文杉」、ポーランドの
アウシュビッツ強制収容所と共に、人類最大の負の遺産
とも言うべき「原爆ドーム」。
 他に「古都・奈良の文化財」「栃木県・日光の社寺」
「岐阜・富山・白川郷五箇山の合掌造り集落」
「兵庫・姫路城」「広島・厳島神社」
「沖縄・琉球王国のグスクと関連遺産群」がある。
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