日本は松のくにであると、「この国のかたち」の中で
司馬遼太郎が述べている。静岡県清水市の名勝地・三保の
松原には、天女が舞い降りたという「羽衣の
松」がある。このように、伝説や歌枕と共に親しまれている
「名のある松」は、全国に数多くある。
 「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と言ったのは、
俳聖の松尾芭蕉である。また「野にいで出よ。野から学べ」
と語ったのは、芭蕉と同じ伊賀上野に生まれた、
書家の榊莫山である。莫山先生と芭蕉を尊敬する私は、
それではと、野に出て松から学ぶ事にした。
まっ、粋狂と言うところだろう。

 仙台市の四里程南に、岩沼という旧宿場町がある。
奥州街道(国道4号線)と浜街道(国道6号線)の追分
(分岐点)であり、竹駒神社の門前町でもある。竹駒
神社は日本五大稲荷の1社であり、たけくま武隈稲荷明神
とも言う。創建は平安時代の承和9(842)年と、
かなり古い。うか穀霊のみたま倉稲魂という、難しい
名の農業神を祀っている。
 現在、境内中央にデーンと建つ彫刻だらけの古びた
唐門は、天保13(1842)年の建築だから、元禄時代
に当地を訪れた芭蕉は、これを見ていない。
芭蕉が見たのは「武隈の松」である。
 武隈の松は、竹駒神社境内北側の外郭にある。
根元から二股に分かれている
様子から、「二木の松」の別名がある。
「今はた 千歳のかたちととのほひて、めでたき松の
けしきになん侍りし」と、300年前にこの松を見た
芭蕉が「奥の細道」で、1000年前の姿を偲ばせる
めでたい松だと述べている。
 芭蕉はこの松の事を「歌枕」として知っていた。
たとえば平安時代の漂白歌人・能因法師(988〜?)
の歌 ━ 武隈の松はこのたび跡もなし ちとせを
経てや 我は来つらむ(後拾遺和歌集) ━
 能因法師がこの地を訪れたのは、竹駒神社創建の
150年後の事である。この時すでに、武隈の松は古樹・
名木として多くの歌に詠まれ、有名だった。
陸奥守・藤原元善が植え、野火で焼けた後、源満仲や
橘道貞が植え継いできた松だった。
 ところが実際に来てみると、陸奥守・藤原孝義なる者が
木を伐らせ、名取川の橋杭にしてしまって跡形もないじゃ
ないかと、嘆いているのである。かくして藤原孝義は、
松の木一本伐らせたばかりに、1000年後までこうして
語り継がれる悪人になってしまった。

 芭蕉は「古人も多く旅に死せるあり」として、自らも
古人の如く漂白の旅に出ようと、奥の細道冒頭で語った。
その古人とは、能因法師であり西行だった。
芭蕉は芦野の里(栃木県那須郡那須町芦野)の「清水
流るるの柳」の前に立つ。その柳は500年前に、
西行が木陰で涼を求めた柳だった。
「西行もこの場所に立ち、この柳の木陰で涼んだのだ」と、
芭蕉は感激する。500年という時の隔たりを超えて、
ある種の一体感が生まれたのだろう。
 私もまた、芭蕉と300年の時を隔てて、武隈の松の
前に立った。そして、ずっしりと密度の濃い幹に触れて
みた。その瞬間、松の霊気が私の全身を貫いた。
 樹齢100年以上の古樹には、必ず神気・霊格が宿ると
語ったのは、樹木医の草分け・山野忠彦である。松は
総じて瞑想的な樹木だが、奥州の大地にしっかりと根を
張った「武隈の松」は、1000年を1日として生きて
いるような瞑想者だった。私と芭蕉と松と奥州の地霊が、
渾然一体となったような眩暈に襲われた。
 それは言葉として表現出来ない「直覚」だった。
なるほど、松の事は松が教えてくれる。それを体験した
ければ、私同様の「粋狂」で、古樹を探して会いに行き、
手で触れて対話してみるとよい。古樹との間に、親密な
友情が生まれる事だろう。たぶん。

青葉城

 仙台の歴史散歩と題してサイクリングに出かけた。
起点は太白区の愛宕山である。向山4丁目の登り口から、
降りて歩くのが賢明と思われる急坂が100m程続く。
頂上には、江戸初期創建の愛宕神社がある。北側眼下に
広瀬川が流れ、足もとは80〜100mの断崖になって
いる。
 仙台の大雑把な地形は、この愛宕山から西は丘陵地帯。
東は肥沃な仙台平野である。陸奥国府・多賀城から利府・
岩切・余目・福室・苦竹・木ノ下・北目・郡山・日辺・
今泉などの水田開発は、少なくとも奈良時代までは
遡る事が出来る。
 1189(文治5)年9月、源頼朝が平泉の奥州藤原氏を
滅ぼした後、仙台平野の支配者は留守氏と国分氏であった。
伊沢家景は陸奥国留守職に任ぜられて多賀城へ。
以後留守を姓として、岩切を本拠にして勢力を拡大させた。
しかし南北朝の頃、奥州探題として下向した吉良貞家と
畠山高国が対立し、畠山に味方した留守氏は岩切合戦に
敗れて没落。吉良に味方した国分氏が勢力を拡大した。
戦国期、両者は宿敵として戦い続けた。
 国分氏とは、奥州遠征軍海道方面(常磐道)総大将・
千葉介常胤の5男・胤通が、宮城郡国分荘(仙台市)を
賜り、郷六に居を構えた事に始まる。郷六とは愛宕山から
西に直線で約7km。青葉山西山麓の低地で、現在は
近くに宮城インターチェンジがある。
 郷六には仙台藩四代藩主・伊達綱村の別荘があり、
青葉城二の丸からの間道が通じていたという。仙台藩
では愛宕山・大年寺山を東端とし、向山丘陵・八木山・
青葉山の山塊群を天然の城塞に見立てて、郷六辺りを
西端とする城郭構想を持っていたらしい。
 胤通はその後、青葉山の「千代城」に移り、国分氏の
祖となった。千代城は伊達政宗入府までの400年間、
国分氏の本拠であった。国分一族には、郷六・森田・
八乙目・北目・南目・朴沢・鶴谷・松森・粟野・古内・
坂本・白石・堀江各氏の名がある。現在の地名にも名を
残す通り、支配地域は七北田川上流域と、広瀬川下流域
を軸にした仙台市全域に及んでいたと思われる。
1587(天正15)年以降は伊達家臣団に組み込まれ、
「国分衆」として仙台開府に際し重要な役割を
担う事になる。
 伊達政宗の叔父・国分彦九郎盛重は、宮城郡国分
小泉村に要害を築いたとある。
愛宕山の東2kmにある、若林区古城(現・宮城刑務所)
辺りである。この周囲が政宗入府以前の町場(国分)だった。
政宗は晩年、ここに若林城を建てて住まう事になる。
 さらに古城から広瀬川を渡った名取郡北目には、
粟野大膳の居城・北目城があった。1591(天正19)年
9月、伊達家は国替えで米沢から岩出山に移った
わけだが、この時北目城には屋代景頼が城主として入った。
 1600(慶長5)年5月、徳川家康は会津の上杉景勝
討伐を命じた。6月14日に大阪を発した伊達政宗は、
中山道から常陸・相馬を経て7月12日に北目城に
入った。そして軍勢を整えるとすぐさま上杉領となって
いた刈田郡の白石城を攻撃。25日に落城させた。
 この時政宗は家康に対し、戦闘報告と共に新城の
築城許可を願い出ている。その候補地は4つあったと
される。第一に石巻・日和山の葛西城跡。後に川村
孫兵衛の北上川付け替えという大土木事業により、
南部藩の盛岡から大崎平野の大穀倉地帯を経て河口の石巻
までの水運が開けるわけだが、そうした交易の利便性
を考慮した、秀吉好みの商都になっていただろう。
 残る3つは仙台平野を視野に入れている。源頼朝が
奥州藤原氏を討つべく大軍を発した時、藤原泰衡が本陣に
した鞭楯(むちたて・宮城野区榴ヶ岡公園)。小高い丘
からは宮城野を一望出来る。政宗はこの地を最も望んで
いたと言われる。もしこの地に平城を築いていれば、
江戸のような運河を張り巡らせた水の都になっていたかも
しれない。
 あと2つは大年寺山(野手口)の茂ヶ崎城跡と、青葉山
の千代城跡である。家康は9月15日に関が原の合戦に
勝利した後、国分氏の千代城再興を許可した。
12月24日、甲牛の吉日を卜して縄張り始めを行い、
政宗は北目城から青葉山の高台64mにある千代城に
入った。
 国分氏が城の名を「千代」としたのは、青葉山に千躰物
を祀るお堂があった為と言われている。政宗は「入りそめし
 国ゆたかなる みきりとや/ちよ千代と限らじ 
せんたいの松」と歌を詠み、お気に入りの唐詩選から
「仙台初めて見る五城楼」の詩を引用して、城と街の名を
「仙台」と改めた。
 1601(慶長6)年1月11日、後藤孫兵衛信康と
川島豊前宗泰を総奉行として普請開始。石垣衆は茂庭
石見延元を奉行として、棟梁に鹿野清左衛門、黒田
八兵衛、能島与右衛門。使用された石は郷六の北・
大石ヶ原や国見峠から採石された安山岩質玄武岩
1万2000個あまり。
 また城下の測量や絵図の作成も同時に行われ、翌年の
2月から5月にかけて、
岩出山城下から家臣や町人の引越しが行われ、名実共に
仙台開府となったのである。
 おっと、すっかり愛宕山に長居してしまった。仙台の
語源となった千躰物のお堂も拝んだ事だし、これから
向山と八木山を登って、青葉山本丸(天守台)を目指すと
しますか。あの有名な伊達政宗騎馬像を見て、名物の
「ずんだシェイク」でも飲もうではないか。

校歌

 ♪春高楼の花の宴♪と、漢詩調の格調高い名曲「荒城の月」
の作詞者・土井晩翠は、1871(明治4)年10月23日、
陸前国宮城郡仙台北鍛冶町902番屋敷(現・仙台市青葉区
木町通2丁目)に生まれた。
 1896(明治29)年、東京帝国大学英文科入学。同期に
上田敏、先輩に夏目漱石がいる。4年後に仙台の旧制二高
(現・東北大学)に英語教授の職を得て赴任。
噂によると土井の英語には、ズーズー弁のなまりがあったと
いう。
 土井は詩集「天地有情」が有名だが、全国各地の校歌の
作詞を数多く手がけている。なかなか渋い仕事だが、
校歌とは世代を超えて歌い継がれてゆく、隠れたロング
セラーと言える。あなたの、あるいはあなたの知り合いの
出身校はありますか?

(市町村名は平成の大合併以前の名前を使用・・・
これも歴史です)

○北海道標津郡標津町「薫別小学校」伊達市「伊達小学校」
 紋別郡遠軽町「遠軽高校」岩見沢市「岩見沢東高校」
 札幌市豊平区「北海高校」中央区
 「札幌西高校」室蘭市「室蘭商業高校」
 函館市「函館中部高校」「旧制函館中学(北大水産学部)」
○青森県黒石市「中郷小学校」三戸郡名川町「名久井小学校」
 八戸市「鮫小学校」「鮫中学校」「柏崎小学校」
 青森市「青森商業高校」南津軽郡平賀町
 「柏木農業高校」弘前市「青森県師範学校(弘前大学教育学部)」
○岩手県盛岡市「岩手県女子師範付属国民学校」
 宮古市「宮古小学校」釜石市「小佐野小学校」
 「釜石商業高校」東磐井郡藤沢町「黄海小学校」久慈市
 「久慈農林高校」盛岡市「岩手高校」「盛岡工業高校」
 「岩手医科大学」「岩大工学部」花巻市「花巻農業高校」
 北上市「黒沢尻北高校」胆沢郡胆沢町「水沢農業高校」
 陸前高田市「広田水産高校」一関市「一関第二高校」
 「一関農業高校」「一関工業高校」
○宮城県登米郡東和町「錦織小学校」「米川小学校」
 登米郡中田町「上沼中央
 小学校」「浅水小学校」登米郡迫町「北方小学校」
 登米郡登米町「登米小学校」登米郡南方町「南方小学校」
 登米郡豊里町「豊里小学校」本吉郡津山町「柳津小学校」
 加美郡宮崎町「宮崎小学校」玉造郡岩出山町「岩出山小学校」黒川
 郡大郷町「明星中学校」古川市「古川第一小学校」
 「古川商業高校」加美郡中新田町「鳴瀬小学校」
 遠田郡小牛田町「中埣小学校」志田郡松山町「松山
 小学校」牡鹿郡牡鹿町「鮎川小学校」黒川郡大和町
 「吉岡小学校」塩釜市「塩釜市立第二小学校」
 仙台市「福岡小学校」「片平丁小学校」「木町通小学
 校」「立町小学校」「北五番町小学校(仙台二中)」
 「東六番町小学校」「北六番町小学校」「秋保小学校」
 「宮城学院(小中高)」「尚絅女学院(中高短大)」「宮城
 教育大学」「旧制二高(東北大学)」「東北薬科大学」
 「仙台商業高校」「仙台高等工業・土木科」
 「常盤木学園高校」「県立農業高校」名取市「高館中学校」
 「下増田小学校」岩沼市「玉浦中学校」柴田郡柴田町
 「船岡小学校」白石市「斎川小学校」栗原郡若柳町
 「若柳高校」栗原郡栗駒町「岩ケ崎高校」遠田郡
 南郷町「南郷農業高校」古川市「古川女子高校」
 気仙沼市「気仙沼町民歌」「気仙沼大島漁業組合歌」
 登米郡佐沼町「佐沼町々歌」・「キリンビール仙台工場歌」
 「東北特殊鋼(株)社歌」
○秋田県大館市「大館鳳鳴高校」秋田市「秋田高校」
 横手市「横手高校」
○山形県鶴岡市「朝賜第一小学校」「鶴岡工業高校」
 天童市「天童市立第二小学校」西村山郡朝日町
「大谷小学校」上山市「中川小学校」「西郷第一・第二
 小学校」「上山農業高校」酒田市「酒田商業高校」
 「酒田東高校」東田川郡余目町「余目高校」
 東田川郡藤島町「庄内農業高校」鶴岡市「鶴岡工業高校」
 村山市「村山農業高校」山形市「山形東高校」
 「山形工業高校」寒河江市「寒河江高校」
 米沢市「米沢工業高校」
○福島県大沼郡会津高田町「高田小学校」
郡山市「熱海小学校」「高川小学校」
 「郡山商業高校」「郡山商業高校」南会津郡伊南村
 「伊南小学校」「伊南中学校」いわき市「平工業高校」
 「勿来第二小学校」「平第一中学校」「磐木女子
 高校」 福島市「福島高校」二本松市「安達高校」
 喜多方市「喜多方商業高校」
 河沼郡会津坂下町「会津農林高校」「会津坂下第一中学校」
 双葉郡双葉町
 「双葉中学校」岩瀬郡鏡石町「岩瀬農業高校」
 白河市「白河第一小学校」
○茨城県常陸太田市「太田第一高校」
 結城市「結城第一高校」筑波郡谷田部町
 「谷田部高校」行方郡潮来町「潮来高校」
○埼玉県北葛飾郡吉川町「三輪野江小学校」
 浦和市「浦和市立高校」
○千葉県千葉市「千葉県女子師範学校(千葉大教育学部)」
 木更津市「木更津高校」
○東京都杉並区「桃井第四小学校」目黒区「岩倉高校」
 「都立大学」「東京工業大学」文京区「郁文館中・高校」
○神奈川県横浜市神奈川区「横浜専門学校(神奈川大学)」
○新潟県燕市「小中川小学校」南魚沼郡塩沢町
 「塩沢小学校」「加茂農林高校」
 北蒲原郡水原町「水原高校」
○富山県富山市「富山工業高校」
○福井県遠敷郡「遠敷農林高校」小浜市「若狭高校」
○長野県上田市「上田東高校」
 松本市「松本高校(信州大学)」岡谷市「岡谷工業高校」
○静岡県清水市「清水東高校」浜松市「浜松高等工業高校
 (静岡大学工学部)」島田市「島田商業高校」
○愛知県半田市「半田高校」名古屋市瑞穂区「瑞陵高校」
 新城市「新城高校」
○滋賀県近江八幡市「八幡商業高校」彦根市「彦根工業高校」
○京都府宮津市「宮津高校」京都市「立命館大学学生歌」
○大阪市淀川区「北野高校」豊中市「大阪大学」
○兵庫県神戸市「神戸商船大学」姫路市「神戸大学」
○島根県太田市「太田高校」
○山口県吉敷郡小郡町「旧制小郡中学」
○愛媛県宇和島市「宇和島東高校」
○福岡県北九州市門司区「豊国学園高校」
 筑後市「八女工業高校」
○長崎県大村市「大村高校」
○大分県大分市「大分高等商業高校(大分大学経済学部)」
○韓国原川市「原川公立農学校」
○満州国・関東軍独立守備隊の歌

八甲田山

 冬は寒い。北国は雪に埋まり、息をひそめる。今から
約100年前の1902(明治35)年1月25日、青森
歩兵第五連隊210名中199名が、青森県八甲田山中
で凍死するという事件が起こった。新田次郎の小説
「八甲田山」で有名になった、「死の雪中行軍」である。
ロシアとの戦争を想定した、耐寒演習だった。
 1月20日、福島大尉率いる弘前連隊第一大隊第二中隊
の38名が、雪の降る弘前を出発。3日後、山口少佐
率いる青森連隊第二大隊210名が、雪の青森を出発した。
 弘前連隊の福島大尉は、大吹雪に迷い込んだならば
凍死か窒息死が当然とされる白魔の八甲田山を行軍するに
あたり、微に入り細にわたり、徹底した用意周到さで
事にのぞんでいる。

一・軍靴は堅牢にして寛裕なるを用うべし。決して水の
 漏入する物を用う
 べからず。(3日目からわら靴・かんじきを使用)
二・足はよく洗い、爪を切り、清潔にし、油脂を塗るを
 可とす。かねて
 凍傷の恐れある者は、凍傷膏を医官に請求してこれを
 塗るべし。
三・靴下はなるべく新品を用い、常に乾燥させるを可とす。
 毛製の靴下なれ
 ばなおよろしい。(実際には靴下を重ねてはき、唐辛子をまぶし、油紙で
 足もとを包んだ)
四・手足が冷えて知覚を失ったときは、布でよく摩擦した
  のち、徐々に暖めること。決して急速に暖めては
 ならない。
五・河川を渡るときは裸足で渡り、渡り終えてから水分を
 よく拭き取り、靴下をはくこと。濡れた足のまま靴を
 はいてはならない。小便は風に向かってする事はさけ、
 最後の一滴まで十分しぼる事として、「股こすり」
 「チン振り」と名づけた。
六・シャツが濡れたときは、予備のものに着替えること。
 腹巻は必ず着用すべし。
七・水筒には一度沸騰させ温湯を容れるように心掛ける
 こと。汗をかいて喉がかわいた時でも、急に多量の
 水を飲んではいけない。
 (水筒の水を七分目にして、少量のブランデーを加えて
 凍るのを防いだ)
八・空腹のため疲労したときは、小隊長の許可を受けた
 うえで、予備の餅を食べること。行軍中は飲酒を
 厳禁する。凍って寒さの厳しいおり、雪中で
 睡眠すると凍死のおそれがある。それで小休止のおりの
 睡眠を禁止する。
 (握り飯や餅は油紙にくるみ、腹巻に巻きつけて凍るの
 を防いだ)
九・日光が雪に反射するとき、眼病にかかることがある。
 予防のため眼簾、
 または有色眼鏡を使用すること。
十・多量の雪を食べたり、氷を噛んで胃を冷やしては
 ならない。
十一・危険や困難に直面したおりは、沈着のうえにも
 沈着に行動すること。
 行軍中に疲労した者あるときは、互いに助け合うこと。

 一方、青森連隊の山口隊は、薪60貫(220s)・
木炭15貫(54kg)・缶詰肉35貫(130s)・精米
13斗・漬物6貫(22s)・釜・炊事用具・
スコップなどを積んだ15台のそりを、60名の兵卒が
曳いての行軍だった。だが、上り坂や吹雪の為、前進が
困難になってそりを放棄。荷は兵卒が背負った。そりを
曳いてふんばった時、わら靴や手袋がびしょ濡れとなり、
手足の凍傷者が続出した。
 この時日本列島を包んでいた強烈な寒気団は、
北海道上川で零下41度を記録するほどの強力なもので、
青森は大雪。八甲田山中は青森湾からの海風と、
竜飛岬を通過する北西風が山腹で互いに衝突して、
猛吹雪になっていた。気温は風速1メートルにつき1度
下がると言われているので、少なくとも零下20度が
現地の気温だっただろう。
 かくして山口隊は、ホワイトアウトの状態に陥り、
力尽きて凍死者続出となったのである。6月になって
発見された死体の大半は、つまご(わら靴)や手袋をつけて
おらず、無帽だった。手足から凍傷にかかった為、
ズボンのボタンをはずせず、ズボンの中に放尿したため、
凍傷が激化したのだった。
 山口隊の生存救出者は17名。山口少佐ら5名は
青森の病院で凍傷の為死亡。神田大尉は責任をとり。
現地の雪中で拳銃自殺。五体満足なのは、
伊藤中尉・倉石大尉・長谷川特務曹長の3名だけであった。
 だが彼ら3名も、1905(明治38)年3月4日、
日露戦争の乃木第三攻撃隊として出陣し、二零山の
夜戦において全員戦死した。また、38名無事生還を
果たした弘前連隊の福島中尉も、黒溝台の会戦において
戦死した。命の重さ・尊さを誰よりもよく知っている
はずの彼らも、戦場では二束三文のその他大勢に
すぎなかった。


 毎年の事ながら、桜前線北上のニュースが流れる今頃
になると、妙に心がざわめく。これが、古代より連綿と
して桜を愛でてきた、日本人の民族魂というものだろう
かと、誇大に思う事もある。
 桜の名所は全国に数々ある。私が見た中で圧巻だった
のは、やはり皇居千鳥が淵あたりの夜景だろうか。
視界一面、染井吉野の桜・桜・桜・・・
現実とも夢幻ともつかぬ、淡桃色の眩暈の中に身を置いた
感覚だけになれる場所の一つだと思う。
 現在目にする桜の多くは、染井吉野という品種で
ある。パッと咲いてハラハラと散る姿が、はかなくも
美しい。だがこの品種の背景に、政治と洗脳の悪臭を
感じると、単に美しいとばかりは言っていられなくなる。
 染井吉野は、明治政府が国策として全国の城跡などに
植林したもので、遠く平安から江戸期にかけて歌に
詠まれた桜は「山桜」だった。歌人たちは、咲き匂う
生命の輝きを詠んだのである。「散る桜」の美学の
背景には、日本国民を戦争に駆り立てた政治家や軍人
たちの思惑が反映されているのである。

 山桜の名所といえば、奈良県吉野熊野国立公園の
一部である「吉野山」だった。修験道の開祖とされる
役小角(えんのおずぬ・637〜701)が、桜の木に
蔵王権現の像を彫り、大峰山を開いた事から、桜の
木を御神木として愛護したのがそもそもの始まりだと
言われている。全山の桜は10万本とも言われている。
「吉野山 花の盛りは限りなく 青葉の奥も 
なおさかりにて」と、平安末の歌人・西行は、
吉野の桜の輝きに圧倒されている。その様子
が今に伝わってくる。

 西行は生涯に2度、奥州・平泉(岩手県平泉町)の
藤原秀衡のもとに旅をしている。当時の平泉は、
人口約15万人。京・鎌倉と並ぶ北の都だった。
中尊寺の金色堂に象徴される黄金文化が、満開の桜の
ように咲き誇っていた。
 平泉から北上川を渡った所に、牛の背にも似た標高
596メートルの、束稲山(たばしねやま)という山が
ある。全山に1万本以上の山桜が植林されていた。
「ききもせず 束稲山のさくら花 吉野の外に 
かかるべしとは」
西行は、吉野山以外にもこのような桜の名所があった
事に、感嘆した歌を残している。
 西行はもともと、佐藤義清という名の武士だった。
平清盛とほぼ同期である。清盛は保元の乱・平治の乱を
勝ち抜いて頭角を現し、自らは太政大臣に昇りつめ、
平家一門も隆盛を極める。だが、風前のともし火だった
源氏が次々に挙兵し、清盛死して4年後、平家一門は
壇ノ浦の海中へ没したのである。
 さらに源頼朝は、奥州へ出兵して平泉の藤原王国を
滅ぼし、鎌倉幕府を成立させる。西行はその全てを
見届けた。まさに諸行無常・諸業流転の、変転に次ぐ
変転の時代だった。

「願はくは 花のしたにて春死なん そのきさらぎの
望月の頃」
西行はその歌の通り、満月の夜、満開の桜のもとで
73歳の生涯を閉じたと伝えられている。
 
 明治政府は、西行が愛した吉野の桜3万本の伐採を
命じた。吉野桜は封建制度の象徴であり、仏教的御神木
などとはけしからんというのが理由だったらしい。
むろん、平泉・束稲山の山桜も伐採された。
 桜を愛でる心無き「薩長の馬鹿ども」は、軍備を
増強し、朝鮮半島や台湾への侵略やら、日清戦争に
血まなこになる。日本美術院を創設した岡倉天心は、
著書「茶の本」の中で、昔文芸を楽しんでいた時の
日本は野蛮な国と呼ばれ、侵略戦争を始めてからは
近代国家と呼ばれていると、皮肉を込めて語っている。
その「近代国家」は、自己肥大したあげく、大東亜戦争
で自滅してゆくのである。

 いつまでも、桜花を愛で、風雅を味わう日本人であって
ほしいものだ。
それと、美酒を少々・・・西行に乾杯。

ユネスコ外伝

 「思い起こせ。あの時、きみは一人だった」という
言葉がある。いつもそうだった。新しく何かが始まる時、
そこにはたった一人の、やむにやまれぬ熱い想いが
あった。そして少数の理解者。いつもそこから動き出す。
 47歳のマザー・テレサが、単身カルカッタの
スラム街に入った時、持っていたのはカバン一つと
5ルピー(150円)だけだった。この時世界は、彼女が
何者なのかを知らなかった。
 アンリ・デュナンが「赤十字」の構想を説いた時、
人々は「夢物語」だとして相手にしなかった。
 「たった一人の熱い想い」が数多く積み重なってゆく
時、新しい時代が生き生きと動き出す。


 ヒトラー、スターリン、ポル・ポト、東条英機などの
政治指導者は、いずれも何らかの片寄った主義主張に
凝り固まっていた。彼らが政治・軍事的行動以外で共通
しているのは、まるで申し合わせたように「文化」に
対して制限を加えるか、弾圧を行っているという事実で
ある。
 彼らは自らの枠の中で作り上げた、一元的価値観で
しか判断する能力を持たなかった。「あれか、これか」
と「選択」し、異質なものは「排除」した。
多様で異質な価値観を取り込んで成長してゆく余裕など、
まるでなかったのである。彼らは時代を陰鬱な色に
染め上げ、人々は笑いを失い沈黙した。「文化」
の側からすれば、彼らは「愚鈍なおじゃま虫」に
すぎなかった。
 権力や暴力という「力」を手に入れた「おじゃま虫」
たちは、その力を行使して、民衆を自らの偏狭な価値観に
従わせようと、あらゆる努力を試みた。よけいなお世話と
いうものである。
 本質的に愚鈍な彼らは、歴史から学ぶという能力を
持っていない。いまだかつてただの一度も、暴力を
行使した権力が長続きした事などない。民衆が
求めているのは、自由で豊かな生活なのだ。自由の敵で
ある彼らを、民衆は地獄の底深くに叩き落す。
 近年では、宗教的独裁者になりそこねた麻原彰晃
(本名・松本智津夫)という男がいる。彼もまた愚鈍だった。
ピラミッド型のヒエラルキーを作り、頂点に君臨する
ことを望む。そして「私は偉い。私は正しい。
私は絶対だ」とほざく。
「私は正しいのだから、私に反対する者は間違っている。
ゆえに消滅してもかまわない」という論理を展開する。
 ヒトラーや麻原に代表される独裁者集団は、決まって
人々の自由意志を奪い、「力」で物事を解決しようとする。
愛と自由は息をひそめる。こうした環境では、ロクな
文化は生まれない。第二次世界大戦中のドイツや日本から
、文化の名に値するものを見つけ出すのは困難な作業だ。
幼稚な歴史認識でヒトラーを尊敬した「オウム」という
集団は、汚物と毒物だらけの「王国文化」しか生み
出せなかった。
 だが自由な風が吹きはじめると、「文化」は身に
ついた汚物や泥をはらいのけ、生き生きと成長してゆく。
人は愛を歌い、生命を踊る。わいわいと、うるさい
くらいに。こうした中から、洗練された美も生まれて
くるというものである。

 1945(昭和20)年8月15日。日本が無条件降伏し
戦争が終わった。
全国どこへ行っても、アメリカ軍の空襲によって一面の
焼け野原だった。誰もが食糧不足に悩まされ、空きっ腹
をかかえ、その日を生きる事で精一杯だった。
 一方、アジア全域から日本本土へ引き揚げて来る
「復員」も始まった。中国大陸だけでも、約400万人
の日本人がいた。上田康一は上海の日本大使館で
終戦を迎えた。翌1946(昭和21)年4月、
日本本土へ。外務省職員だった彼は、終戦連絡事務局
連絡官として仙台市に赴任してきた。仙台も大空襲によ
って、焼け焦げた建物が残る荒れ果てた町になっていた。
 文化班のメンバーとしてGHQとの交渉にあたっていた
上田は、11月25日の朝日新聞の囲み記事を、
食い入るように読んだ。
「これだっ。」
焼け野原の中で暮らし、精神まで腐りかけていた上田は、
新聞記事に一筋の光明を見出した。
「ユネスコ・・・」
 記事は、フランスのパリ・ソルボンヌ大学で19日
から開催されている、第一回ユネスコ総会にまつわる
外電だった。パリは今「ユネスコの月」と呼ばれ、
絵画展や映画祭、音楽祭や科学講演などが毎日開催
されている、と紹介されていた。
 ユネスコ(国連教育科学文化機関)は、1945年
11月に、アメリカやイギリスの文化人や政治家が
ロンドンに集まって会議を開いた際、戦後の国際社会
の為に設立を決めた、国際連合の付属機関である。
「文化の交流と相互理解を通して、コツコツと地道な
平和の地固めの仕事をする」のが目的だった。
第一回総会には、後の文化大臣・アンドレ・マルローや、
哲学者のポール・サルトルらが出席した。
 記事を読んだ上田は、日本にもユネスコを作ろうと
考えた。
「文化を踏み潰して、軍国主義の教育で突っ走ってきた
結果がこれだよ。文化の復興と国際交流による相互理解、
それに新しい教育が必要なんだよ。」
 上田はまず、文化班の同僚にユネスコを紹介し、
その必要性を説いた。もと満州国外交部に勤務していた
榛葉(しんば)英治が、敏感に反応した。彼は戦後、
妻の実家がある仙台に来ていた。上田も榛葉も、まだ
20代の血気盛んな年頃だった。
「俺たちだけだと、世間的な重みに欠ける。何せ国連
だからな。」
 榛葉が組織作りにかけまわった。同じ文化班の
村岡勇が、恩師の土居光知東北大学教授を紹介した。
上田と榛葉は、土居を「仙台ユネスコ協力設立準備委員
会」の委員長に担ぎ上げる事に成功した。準備委員には、
桑原武夫東北大学助教授など、仙台の文化人が名を
連ねた。
 上田は発足趣意書を起草した。1947(昭和22)年
7月19日、東北大学講堂に市民600人を集めて、
「第一回民間ユネスコ運動世界大会」が開催され
た。
「仙台ユネスコ協力会・発足にあたっての声明・・
武力を棄て去った日本人は、世界平和を望み、平和
促進の文化運動に参加して、何らかの貢献をしたいと
切実に願うようになった。 日本人は過去の態度を
改め、真理愛好の精神と、世界文化に対する将来の
希望を抱いて、新しい国の歩みを始めている。
─戦争は人々
の心の中で始まるから、平和の守りも人々の心の中で
打ち立てられなければならない─とのユネスコの主旨は
、今次の大戦の経験によって、日本人が最も痛切に
感ずるところのものである。
 そして特に、この戦争を拒否し、平和を盛りたてる
運動が、国家の指導者と少数の代表者に任せて置かれる
べきでなく、全国民の各々の心の中において、
いま即時に始まらなければならないと思う。これ、
日本が公式にユネスコに参加出来るに先立ち、この心の
準備として、またおのずからなる要求として、ここに
ユネスコ協力会がつくられた理由がある。われわれは
かかる運動が、やがて日本全体のものになることを
期待している。さらにまた、われわれのこの努力に対し
て、平和を愛する世界の人々の同情と支援を期待して
やまないものである。
 1947(昭和22)年7月19日・仙台ユネスコ
協力会 」

 物資不足で「紙」がなかった。上田は発足趣意書を
障子紙に墨で書いた。もう一通を英文に翻訳し、やはり
障子紙で作った封筒に入れ、パリのユネスコ本部宛
に発送した。
 全てはここから始まった。同年11月、メキシコ市で
開催された第二回ユネスコ総会において、上田の起草
したメッセージが、イギリスの生物学者にして事務
局長のジュリアン・ハックスレー卿によって読み上げ
られた。日本の地方都市・仙台に誕生した世界初の
民間ユネスコ運動組織は、このような経緯によって
世界から公認された。日本が国としてユネスコに加盟
するのは、これから4年後の1951(昭和26)年の
事である。

 今ユネスコと言えば、「世界遺産条約」の機関として
知られている。この条約は、1972(昭和47)年の
ユネスコ総会で採択されたものである。ピラミッドや
万里の長城など、人類の文化遺産や、人類の責任に
おいて大自然を守ろうという主旨の条約である。
2001年5月現在、世界162カ国が条約に加盟し、
文化遺産529、自然遺産138、文化自然(複合)
遺産23が登録されている。
 日本では、聖徳太子ゆかりの「法隆寺地域の仏教
建造物」、原爆投下の第一目標だった「古都京都の
文化財」、条約指定によって無意味な県道づくりの
難からのがれた「青森・秋田・白神山地のブナ原生林」
、環境文化村づくりで自然と人間の新しい関係性を
目指す「屋久島・縄文杉」、ポーランドの
アウシュビッツ強制収容所と共に、人類最大の負の遺産
とも言うべき「原爆ドーム」。
 他に「古都・奈良の文化財」「栃木県・日光の社寺」
「岐阜・富山・白川郷五箇山の合掌造り集落」
「兵庫・姫路城」「広島・厳島神社」
「沖縄・琉球王国のグスクと関連遺産群」がある。

パン

 現在ごく普通に「パン」と呼ばれている食品が、
ポルトガル語であると知っている人はどれ程いるだろう
か。英語のブレッドではないのである。この辺に、
歴史の奥深さがある。
 ポルトガルといえば、1543(天文12)年に種子島
に漂着したポルトガル人がもたらした、「鉄砲伝来」が
有名である。もう一人の重要人物は、イエズス会の
宣教師、フランシスコ・ザビエルである。ザビエルは
1546年7月に、マレー半島のマラッカの地で、
弥次郎という日本人と出会う。
 弥次郎はもともと、薩摩国(鹿児島県)の貿易商だったが
、35歳の時誤って人を殺して国外へ逃亡。悔い改めて
洗礼を受け、パウロ・デ・サンタフェと称していた。
ザビエルは弥次郎を道案内兼通訳として、トーレス神父、
フェルナンデス修道士らと共に、中国船「海賊号」で
薩摩国に上陸。領主・島津たかひさ貴久に会って
キリスト教の布教許可を得るのである。
 ポルトガル人は鉄砲とキリスト教の他に、パンと
ワインを日本に持ち込んだ。織田信長、豊臣秀吉、
徳川家康、伊達政宗など、当時の諸大名はいずれも
ワイン党であった。パンや牛肉も食べた。
 だがパンとワインは特に、江戸時代「御禁制」となる。
それはキリスト教の禁令と結びついている。パンは
キリストの肉であり、ワインは血であるという教えの
為である。徳川三代将軍・家光は、隠れキリシタンが
パンの代用にしそうな饅頭まで禁止している。
 ザビエル布教の当初、宣教師たちがインドのゴアから
やって来る事から、「天竺宗」や「南蛮宗」と呼ばれ、
仏教の異なった宗派だと思われていた。異国的な物珍しさ
も手伝って、豊臣秀吉がキリスト教を禁教にする頃には、
75万人程の信者数に膨れ上がっていた。
 禁止の理由は諸説あるが、ポルトガル船による奴隷の
売買や、キリシタン信徒による神社仏閣の破壊、長崎
「教会領」の要塞化などの政治的理由によるものと
推測出来る。
 天下を継承した徳川家康は、最初キリシタンに寛容
だったが、キリシタン大名・有馬晴信の贈収賄事件を
きっかけに態度を硬化させ、1612(慶長17)年
4月にキリシタン禁教令を出し、大弾圧を開始するので
ある。
 やがて日本はイギリス、スペイン、ポルトガルと
国交を断絶し、平戸のオランダ商館を長崎の出島に移して
鎖国を完成させた。パンは出島で細々と作られるのみと
なった。
 そして200年が過ぎた。1840(天保11)年、
イギリスと清国の間にアヘン戦争が勃発した。イギリス
は優秀な銃砲で清国軍を破り、香港を獲得する。いずれ
日本も清国同様、「食い物」にされるのではない
かと、このニュースに憂慮する人物がいた。幕府老中・
阿部伊勢守である。
 阿部は、西洋兵学の権威である伊豆韮山代官・
江川太郎左衛門を呼んで意見を求めた。江川は韮山に
反射炉を設けて鉄砲をつくったり、後に江戸湾に台場
(砲台)を築いた人物である。阿部はイギリス艦隊に
対していかに戦うかを問い、山岳ゲリラ戦ならば勝ち目
があるという事で意見が一致した。
 山岳ゲリラ戦には携帯食が要る。日本には古来より
さまざまな兵食があった。乾燥マムシと黒大豆の粉を
酒で練った「楠木氏へいりがん兵利丸」や、白米・小豆・
もち米・薬用人参などの粉末を蜂蜜で練って蒸した
「義経兵糧丸」などである。江川が選択したのは
「パン」だった。
 江川は友人の蘭学者・高嶋秋帆から、長崎・出島の
オランダ屋敷の料理人・作太郎を、伊豆韮山の江川邸に
呼び寄せ、焼き窯をつくって兵糧パン作りを始めた。
 江川は試行錯誤を重ね、種として冷えても柔らかさを
保つ酒種(米糀)の製法にたどり着いた。また後に
江川邸には、漂流の末アメリカに渡っていた中浜万次郎
(ジョン万次郎)がやって来て、アメリカ風パンの製法
を伝授する。
 江川は江戸に「江川塾」を開き、全国130藩の門弟
たちに、西洋兵学と共に製パン技術を伝授した。門弟の
中には、長州藩の桂小五郎や、薩摩藩の黒田清隆、
大山巌なども含まれていた。彼らは各藩でパンを製造し、
兵糧として貯蔵した。
 仙台藩から江川塾で学んだのは、多田頼顯(あきより)・
頼訥(よりのり)兄弟だった。頼顯は30歳の若さで
夭折するのだが、弟・頼訥は皆伝を受けて仙台藩に帰り、
養賢堂の洋砲教授になっている。この多田家の末弟が、
後に新宿・中村屋を創始する相馬黒光の父、多田喜四郎
である。
 多田家は代々、砲術をもって仙台藩に仕えた家柄だった
が、同時にキリシタンでもあった。元和年間(1615〜
1623)、伊達政宗の命により「類族にて」改宗証文を
出し浄土宗に転じたが、墓には「釣鉤(つりかぎ)梵字」
という隠れキリシタンのマークが用いられていた。
この点、パンとキリシタンの因縁の深さを感じない
わけにはいかない。

北畠顕家

 1333(元弘3)年5月22日午前3時。新田義貞軍が
稲村ガ崎から鎌倉府内に突入し、諸方に火を放った。
幕府執権・北条高時ら283人が、東勝寺において切腹。
870余人が焼死して鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による
親政が始まった。
 10月、正四位参議右近衛中将北畠顕家は陸奥守に
任じられ、6歳ののりよし義良親王を奉じて奥州に
下向する事になった。時に顕家16歳。若いながら
聡明な、弓の名手であった。
 11月末、陸奥国府の多賀城(宮城県多賀城市)着。
国政の中核である式評定衆は、親族の冷泉源少将家房、
学者の藤原式部少輔英房、内蔵権頭入道元覚という、
京から顕家に従ってきた者の他、奥州の豪族、結城
上野入道宗広・親朝親子と、伊達左近蔵人行朝、
旧鎌倉幕府で民政に通じた二階堂行朝などで固められた。
 1335(建武2)年7月、北条高時の遺児・時行が、
信州の諏訪頼重の助力を得て鎌倉に侵攻。時行軍は
小笠原貞宗を破り、足利直義を追放して鎌倉を奪還
したが、尊氏軍の反撃により20日あまりで逃走する
事となった。反乱の余波は奥州・津軽や白河方面の
北条勢力へも波及。顕家は南部師行や伊達行朝の軍
を派遣して、乱の鎮圧にあたらせた。
 乱後足利尊氏は、斯波郡(岩手県)を本貫とする斯波
家長と石搭義房を奥州管領
に任じて、顕家と対峙させた。尊氏自身は征夷大将軍を
自称し、後醍醐親政との対決姿勢を鮮明にしていった。
11月、帝は新田義貞に尊氏追討を命令。勅命の
綸旨(りんじ)は顕家にも下された。
 12月22日、北畠顕家は義良親王を奉じ、伊達行朝、
結城宗広・親朝、南部師行、相馬胤平、葛西宗清・
清貞ら奥州の猛兵を率いて多賀城より出陣した。
しかし亘理郡の武石胤顕、信夫郡の佐藤一族、岩城郡の
伊賀光貞らが足利方の斯波家長軍へ参加。相馬氏は
一族内で分裂し、追討軍は朝廷方と足利方の2つに
割れた。要は鎌倉幕府無き今、自らの所領を安堵して
くれるのは朝廷なのか、源氏の頭領たる足利尊氏なのか
という点にあった。
 新田義貞軍は尊良親王を奉じて、足利直義軍を三河国
矢作(やはぎ・愛知県岡崎市)の戦いで撃破。箱根竹下
(静岡県駿東郡小山町)で尊氏軍と対峙した。12月11〜12日
の戦いで、大友左近将監ただとし貞戴や佐々木塩治判官
高貞らが尊氏方に寝返り、新田軍は敗走に転じた。
しかしその尊氏軍も、顕家率いる奥州軍に押されて
京都方面に敗走。1336(延元元)年正月13日、
顕家軍は近江(滋賀県)園城寺で新田軍と合流。尊氏は
播磨(兵庫県)から船で九州まで逃走するに至る。
 顕家は戦功により従二位鎮守府大将軍に、義良親王は
陸奥太守に任じられ、3月末に多賀城へ帰任した。
この間にも奥州では、相馬光胤対朝廷方の中村広重・
広橋経泰・しねは標葉一族との合戦が続けられていた。
 そして戦局は再び大反転する。九州の足利方が軍勢を
立て直し、大挙して攻め上って来たのである。5月
25日には楠木正成軍を摂津湊川(神戸市)で撃ち破り
入京。光厳天皇の弟・光明天皇をせんそ践祚して
北朝を成立させた。後醍醐天皇は足利方に幽閉された
ような形で、一旦は和睦に応ずるが、12月に吉野へ
脱出。南朝が成立して、世に言う南北朝時代へ突入する
のである。
 顕家軍の動きも活発だった。4月に斯波家長軍を
相模国(神奈川県)片瀬川で破り、鎌倉を制圧。5月
24日には相馬郡で、相馬氏の本拠・小高城を陥落
させた。しかしもう一方の奥州管領・石搭義房軍に
多賀城を占拠され、顕家は伊達行宗領である霊山城
(福島県伊達郡霊山町)に移って、ここを新国府とした。
 1336(延元元)年12月、吉野の後醍醐天皇は
江戸重忠を勅使として霊山の顕家のもとへ下向させ、
北朝追討の綸旨を下した。時に顕家20歳、義良親王
は11歳だった。
 翌年の8月11日、伊達行朝、結城宗広、懸田定隆、
葛西清貞、南部師行、武石高広、津軽の工藤一族、
岩手の下山一族などの精兵3万は霊山を発した。
白河の関を越す頃には、その数は10万に達していた。
 顕家軍は宇都宮の結城宗広領で装備を整え、小山の
桃井貞直軍と13昼夜にわたって激闘を繰り広げ、
城将・小山朝郷を捕縛。しかしその後の進撃は利根川
に阻まれた。顕家に鎌倉を追われた守将の斯波家長軍が
鉄壁の布陣を敷き、渡河する奥州兵に向けて雨あられと
矢を浴びせかけた。
 対陣ひと月半の後、ようやく堅陣を突破した顕家軍は、
鎌倉街道を一気に南下して鎌倉府内に突入。斯波家長は
杉本城で切腹。足利よしあきら義詮と上杉憲顕・
高重茂(こうのしげもち)・細川和氏らは三浦半島方面に
敗走した。
 1338(延元3)年正月3日鎌倉を発した顕家軍は、
28日青野原(岐阜県垂井町・関が原)で、高師冬・
吉川常久、佐々木道誉・秀綱、土岐頼遠、細川頼春らの
北朝軍と対峙した。この時顕家軍の背後には、上杉憲顕
率いる関東軍が迫っていた。
 顕家軍は前面の土岐頼遠、桃井直常勢をさんざんに
打ち負かした後、兵を南下させて挟撃を交わし、
伊勢から伊賀山中に入り、奈良を目指した。途上には、
後醍醐天皇が反北条の火蓋を切った笠置山もあった。
 2月28日からは奈良市中の東大寺付近、法華寺
付近、般若坂などで、高師直軍と市街戦を展開。
3月8日には細川顕氏軍を天王寺付近で撃破し、
顕家の弟・顕信は男山八幡宮まで進出した。
 高師直(こうのもろなお)・師冬軍は、武田・島津・
吉川・田口・岡本諸隊を率いて天王寺口へ集結。
顕家軍と一進一退の激烈な戦闘を続ける。顕家が戦死
したのは、天王寺の南・阿倍野辺りと言われている。
修羅の中を駆け抜けた21年の短い生涯だった。
南部師行・武石高広ら奥州の将も個々討ち死にして
いった。
 吉野朝はこの後、顕家の弟・顕信を陸奥鎮守府将軍に
補し、結城宗広を後見として奥州へ向かわせた。
1339(延元4)年3月、義良親王は後村上天皇として
13歳で即位。8月16日深夜、後醍醐天皇崩御。
しかし南北朝の混沌とした戦乱は、この後も止む事なく
続くのである。

北畠顕信

 1338(暦応3)年7月。5年前に鎌倉幕府を倒した
南朝方の主将・新田義貞が、越前国藤島の灯明寺畷
(福井市)という泥田の中で、流れ矢に射抜かれて
戦死した。同じ頃、男山八幡(京都市八幡市・岩清水
八幡)の山岳要塞に立て篭もり、戦上手と言われた北朝方
の高師直軍と対峙する事数ヶ月。ついに食料尽きて
河内に撤退したのは、2ヶ月前に戦死した北畠顕家の
弟・顕信だった。
 吉野の後醍醐天皇は、京都奪還の策を捨て、東国を
固めて再起をはかる事にした。北畠顕信は兄の後任と
して、従三位近衛中将陸奥介鎮守府将軍に任ぜられ、
老臣・結城宗広が脇を固めた。この時顕信は、20歳
前後だった。
 吉野朝の主力は、北畠氏の本拠地・伊勢国田丸城
(三重県玉城町)を経て、伊勢大湊から船団を組み、
9月に東国を目指して出航した。だが遠州灘で暴風雨に
遭い、船団は散りじりになった。
 顕家・顕信兄弟の父にして吉野朝の重臣・北畠親房と
伊達行朝船は、無事常陸国(茨城県)Iたどり着き、
霞ヶ浦南岸にある小田治久の神宮寺城に入った。
宗良親王の船は駿河湾に漂着し、遠州の井伊城に入った。
 義良親王と顕信・結城宗広の船は、知多半島沖の篠島
に押し戻された。いったん引き返した伊勢の田丸城で、
義良親王から「結城のじい」と慕われていた70歳の
老臣・結城宗広が病没した。翌年3月吉野に戻った
義良親王は、後村上天皇として13歳で即位した。
それを見届けた後醍醐天皇は、8月16日深夜に崩御。
「魂魄は常にほっけつ北闕の天を望まん」と、死して
後も北朝と戦い続けるとの綸旨を残し、波乱に満ちた
52年の生涯を終えたのである。
 この頃関東では、北畠親房を迎え入れた常陸の小田・
関氏が、北朝方の佐竹氏や下総の結城・上総(千葉県)
の千葉氏と。下野(栃木県)の小山・上野(群馬県)の
新田氏は、北朝方の宇都宮氏と戦い続けていた。
親房の神宮寺城は、佐竹に攻められて落城。
阿波崎城(東村)から小田城(つくば市)へと居場所を
変えていた。
 福島方面の南朝方、伊達・田村・石川氏は、相馬・
伊賀(いわき市)・葦名氏(会津)と。山形方面は村上郡
の大江・田川郡の武藤・最上郡のやんべ山家・鶴岡の
葉室(はむろ)氏が、置賜郡(米沢)の長井・村上郡の
中条氏と。青森・岩手方面は、南部・葛西氏が津軽の
曾我・安東・浅利氏や岩手の和賀氏と戦い、一族内で
南朝方と北朝方に分裂して戦う事も珍しくはなかった。
 こうした蜂の巣を突付いたような混乱の中、北畠顕信
は側近の五辻清顕らと共に1340(興国元)年夏、
再度東国へ下向した。この時親房は小田城に在って、
高師冬軍に囲まれ苦戦していた。顕信は「奥州を平定
して関東を攻めるべし」という葛西清貞の策を入れ、
海路牡鹿郡の葛西城(宮城県石巻市日和山)に入った。
 顕信の意を受けた南部政長は、興国2年3月、
稗貫郡と和賀郡(岩手県)の北朝方を討ちつつ南下。
葛西軍と合流して、9月に奥州管領・石塔義房軍と
栗原郡三迫(宮城県栗原市)との戦闘が開始された。
 栗原の戦線は南朝方有利の情勢だったが、関東では
小田治久が北朝に寝返り、親房は関宗祐の関城
(茨城県筑西市)に逃走。結城宗広の子・親朝は出兵に
消極的で、南朝にとってかなり不利な状況となっていた。
 1342(興国3)年9月、顕信は再度栗原三迫に
出兵し、石塔軍と対した。激闘7日を経て石塔義房は
栗駒鳥矢崎の里屋城を陥落させた。さらに激闘9日後、
八幡城を落して南朝方最後の拠点・津久毛橋城
(つくもばし)(栗原市)へと迫った。10月28日、
北朝の和賀軍が顕信軍の背後を衝き、2ヶ月余の
激闘の末、南朝敗北で決着がついた。顕信は河村六郎の
居城・岩手郡の滴石城で再起の時を待った。
 だが翌年6月、結城親朝が北朝へ降り、葛西清貞が
死ぬと一族は北朝に降った。11月には関城が陥落
して関宗祐が戦死。親房は下妻氏の大宝城(茨城県筑西市)
を頼るが、ここも落城。親房は5年に及ぶ関東転戦の
末、吉野に帰らざるをえなかったのである。
 1346(正平元・貞和2)年正月、足利尊氏は
奥州管領・石塔義房の後任として、吉良貞家と畠山高国
を任命した。両者は翌年7月、南朝最大の拠点である
伊達の霊山城(福島県伊達郡霊山町)と、田村の宇津峯城
(福島県須賀川市)に総攻撃をかけ、8月末に霊山城が
落城した。
 1348(正平3・貞和4)年5月9日、北畠顕家と
共に戦い続けた伊達宮内大輔行朝(行宗)が58歳で
死去。2年後には八戸城(青森県八戸市)で南部政長も
死去し、南朝方圧倒的不利の状況下で、顕信は出羽に
潜伏していた。
 南北朝動乱がややこしいのは、北朝と南朝の対立に、
室町幕府の足利尊氏派と、弟の直義(ただよし)派の
内部抗争が加わる事にある。吉良・畠山両奥州探題も
2派に割れた。尊氏派の畠山高国は、留守・余目・
宮城氏などの地元豪族を味方にして、留守氏の
本拠・岩切城(仙台市岩切)に立て篭もった。一方直義派
の吉良貞家は、宮城郡千代城の国分氏と共に岩切城に
迫った。
 1351(正平6・観応2)年2月12日、吉良軍は
対陣ひと月の後、和賀基義・白河顕朝らの参着を得て
総攻撃を開始した。難攻不落と言われた標高825mの
霊山城でさえ陥落させた吉良軍である。標高106m
程の山城では吉良軍の猛攻を防ぐ事は出来なかった。
畠山高国・国氏親子は切腹、一族郎党100余名はこと
ごとく討ち死にして戦いが終わった。
 尊氏と直義の内紛に乗じて息を吹き返した南朝方は
攻勢に転じた。1352(正平7・観応3)年10月、
伊達行朝の子・飛騨前司宗遠は、後醍醐天皇の孫・
守永王(宇津峯宮)を奉じて、多賀城奪還を目指して
進軍を開始。吉良貞家は相馬親胤・岡田胤家らを先陣
として出兵させた。両軍は10月22日に刈田郡
倉本川(宮城県・白石川)において激突した。吉良軍は
大敗し、本営を多賀城から名取郡高舘(宮城県名取市)
に移した。
 11月22日、両軍は再度広瀬川(仙台市)で激突。
宮城郡山村(泉区根白石)の大河戸一族が吉良軍の
背後を衝き、南朝方が大勝。吉良貞家は菊田庄
(福島県いわき市)まで逃れた。15年ぶりに多賀城の
国府を奪還して、出羽から顕信を迎えるに至るので
ある。
 翌年閏2月、顕信は上野・越後・信州方面から鎌倉
奪還を目指した新田軍に呼応して多賀城を発した。
途中の白河で吉良貞家・白河顕朝軍に敗れ、宇津峯城
に退いた。吉良軍は3月に多賀城を奪還し、大河戸氏の
市名坂城(泉区市名坂)などを落して宮城郡を平定した。
 1353(正平8・文和2)年5月4日、吉良貞家は
顕信の立て篭もる宇津峯城(宇津峯山・676m)を
総攻撃し、激闘20日の後に陥落させた。顕信は再び
出羽へ逃れた。この後の顕信の動静はわからないが、
奥州南北朝はここに終結したのである。
 だが1人だけ例外がある。伊達宗遠である。彼は
1380(天授6・康暦2)年に出羽国置賜郡
(山形県米沢市)に侵入して、北朝方の長井道広を追い
この地を領有。翌年亘理郡(宮城県)の武石行胤や大崎氏
と戦い、亘理・刈田・柴田・伊具(宮城県)と
信夫郡(福島市)を領有するのである。中央で南北朝が
統一されるのは、さらにこの後11年後の1392
(元中9・明徳3)年の事である。

宮城野

 仙台に生まれ育った私にとって、歴史的東北地方と言って
真っ先に思い浮かぶ言葉は「えぞ蝦夷」である。京の
都人(みやこびと)が、野蛮人の住む遠い辺境の未開地と
イメージし、蔑視しているのであろうと思っていた。
 ところが平安朝の貴族たちは、陸奥国にロマンチックな
憧れを抱いていたらしい。今から1260年程前、東大寺
大仏を黄金で飾った砂金は、陸前(宮城県)で発見された。
以来陸奥国は、くがね黄金花咲く国となった。
 また、古今和歌集をはじめとする多くの歌に、白河の関
(福島県白河市)や宮城野の萩が詠まれている。その詩的感情は、
たとえば私たちが井上靖の西域小説を読んで、遠い異界の
時空を夢想する気分と似ているのかもしれない。

 東大寺の大仏建立と時を同じくして、聖武天皇は全国に
国分寺・国分尼寺の建立を命じた。陸奥国分寺は、現在の
仙台市若林区木ノ下の地に建てられた。「奥の細道」の旅で
ここを訪れた松尾芭蕉は、
「日影ももらぬ松の林に入りて、ここを木ノ下といふとぞ」
と記している。一面の赤松林だったのだろう。
 この陸奥国分寺の北に広がる野が、平安朝の頃から萩の
名所として知られていた「宮城野」である。紅紫色の萩の
花が、秋風吹く宮城野に咲き乱れるという、可憐であり
ながら寂しげなイメージが、平安朝貴族の詩情をかきたてた
のだろうか。
 木ノ下の北隣のなだらかな岡が、つつじが岡である。
今は桜の名所・榴ヶ岡になっている。この地はその昔、
「鞭楯(むちたて)」と呼ばれていた。源頼朝が奥州藤原氏
を討つべく19万の大軍で遠征した際、藤原泰衡(やすひら)
がこれを迎え撃つ為に陣を張った場所である。
 泰衡は、先陣の国衡が敗れた知らせを受けて平泉へ
引き揚げ、やがて泰衡も家臣の裏切りによって殺され、
黄金の奥州藤原王国は滅亡する事になる。
 木ノ下・榴ヶ岡から、宮城野原を通って陸奥国府・
多賀城政庁(宮城県多賀城市)へと続く道は、「奥大道」と
呼ばれていた。この道の途上に、一本のいちょうの木がある。
推定樹齢は、1200年とも1300年とも言われている。
 1200〜1300年前と言えば、奈良時代の聖武天皇の
頃ではないか。その頃生まれた樹が、今も現役で生きている
というのは、やはり驚きである。誰が呼んだか「宮城野の
乳いちょう」。銀杏町の名も、むろんこの樹に由来している。
 乳いちょうは、高さ32メートル。幹の太さはおよそ
8メートル。雌株である。宮城野の大地に深々と根を張り、
地の霊気を吸い、神霊の風格を宿している。黒々とした
太い枝からは、牛の乳房のような気根がいくつも垂れ
下がっている。秋になると今でも、数多くのぎんなんを
実らせる。まさに「宮城野の最長老・オババ」と言える。
 乳いちょうの前に立つと、まずその神気(オーラ)に
圧倒される。
「うっ・・ん─・・すっ・・すごいっ・・」
確かに圧倒されるが、威圧的な霊気ではない。恐る恐る、
畏敬の念をこめて幹に触れてみる。凝縮された1300年の
時空が、身体を貫く。ふっと全身の力が抜け、広々とした
青空のような気持ちになってくる。これが本当の「自然の
叡智」というものなのだろう。

 乳いちょうは、宮城野八幡神社の境内にある。この神社は、
桓武天皇の延暦17(798)年に、征夷大将軍・坂上田村麻呂
が、男山八幡の分霊を勧請して社殿を造営したのが始まりと
されている。
 源氏の軍神・八幡太郎義家は、前九年の役が終息する
康平5(1062)年にこの神社を訪れ、奥州阿倍氏を討つ
べく戦勝を祈願した。
 時移り、元弘2(1332)年、陸奥守・北畠顕家(あきいえ)
は、北朝の敵・足利尊氏を討つべく、弓矢と太刀を献じて
戦勝を祈願した。
 ともあれ「おお、歴史だ」と思う。乳いちょうは、坂上
田村麻呂や源義家、北畠顕家や伊達政宗といった歴史上の
有名人の実物を、生で見ていた事になる。1000年と
いう時間の単位に、軽いめまいを覚える。
 巨樹・古木というのはすごい。地震・台風・落雷といった
自然災害をやり過ごし、空襲や宅地造成などの伐採という
人災をもかいくぐって、今日まで生き延びているわけで
ある。ちょっと調べてみると、案外身近な場所に、人知れず
在るもののようだ。

ジパング伝説

 イタリア・ヴェニスの旅行家で、17年間元に仕えた
マルコ・ポーロ(1254〜1324)は、著書「東方見聞録」
の中で、中国東方の島国について、次のように記している。
「大陸から1500マイルの大洋にある大きな島の住民は、
色白で礼儀正しい優雅な偶像教徒である。国民はみな莫大な
量の黄金を所有し、国王はすべて純金で覆われた、非常に
大きな宮殿を持っている。屋根・床・広間・窓すべて純金
である。国の名はチパング。」
 マルコ・ポーロの存命中、京都・北山の金閣寺を建立した
足利義満は、まだ生まれてもいない。となると日本国内で、
黄金に彩られた建築物といえば、奥州平泉(岩手県平泉町)
の中尊寺金色堂以外には考えられない。
 金色堂は1124(天治元)年に、奥州藤原の初代・清衡
(1055〜1128)によって竣工した。大工棟梁は京都の
物部清国。漆工や金工の名は不明だが、当代随一の工人たち
だっただろう。
 金色堂は別名・阿弥陀堂と呼ばれる。5.79m四方の
比較的小さな建物である。材は総檜造り。扉・板壁・天井・
床・木瓦など、すべて黒漆金箔仕上げ。四隅の柱は七宝荘厳
の巻柱。やくがい夜玖貝を切り出した螺鈿や金銀蒔絵、
金銅透彫の精巧さは、宝石箱と評される。
 1962(昭和37)年に行われた金色堂の解体修理の時、
使用された金箔は約3万枚(15kg)。漆200kg。
沖縄産の夜玖貝約3万個が使用されている。これを基に
計算すると、創建時に使用された金は150kg、
銀70kg、漆2000kg、夜玖貝10万個以上が
用いられた事になるという。
 さらに漆にはびゃくだん白檀じんこう沈香という香木が
多く混入され、須弥壇にはアフリカ象の象牙、数万個の
ガラス玉や宝石類が用いられていて、何とも国際色豊か
である。
 そもそもの中尊寺は、850(嘉祥3)年に慈覚大師が
弘台寺院として開山した事に始まる。清衡50歳の
1105(長治2)年2月、最初院を造立し、続いて大長寿院
(二階大塔)、金堂を建立。20余年の間に寺塔40余、
禅坊300余宇の大寺院に成長した。
 清衡は中尊寺建立の為に、全国各地から名工・高僧を
集めると共に、宋国から10万5千両(約1.3トン・
40億円相当)という膨大な砂金を費やして、宋版一切
経という経典を入手している。この経典は原則として国外
への持ち出しが禁止されていたので、宋王朝の貴族や僧に
対して、買収を含む相当の根回しを行える外交関係を確立
していたのだろう。そしてこの砂金が「黄金のジーペン・
グオ(日本国)」の噂の種になっていったと思われる。
 清衡は中尊寺建立に至るまでの前半生に、2つの奥州大乱
を経験している。7歳の時、前九年の役に敗れた父・
経清は斬首され、母方の安倍氏は一族離散。後三年
の役では妻子眷属を皆殺しにされた。ただ一人生き残った
清衡は、数奇な運命の導きによって、陸奥・出羽・越後の
支配者となる。
 清衡は敵味方の別なく、奥州大乱で虚しく散った怨霊を
鎮め、戦さ無き「仏心立国」を悲願とした。中尊寺供養願文
の中で清衡は、「出羽・陸奥の土俗、風にしたがう草の如く、
しゅくしん粛慎・ゆうろう?婁の海蛮もひまわり向日葵に
類す」と述べている。
 粛慎・?婁とは、沿海州黒龍江流域に群居する大集団の
宋名で、その一部の女真族は「金」を建国し、宋を北方から
圧迫していた。清衡は縄文の昔から交易によって結び
ついていた渡島(北海道)や樺太を含む北方全域を念頭に
入れて、国というものを構想していた。そして清衡は、
平泉を北方地域の仏教の都として太陽の如く輝かせ、
仏の慈悲の光であまねく照らそうと念じた。それゆえの
中尊寺であり、金色堂であり、宋版一切経であった。
 壮大な夢だった。そしてその夢の国造りを支えていた
のは、かんじんひじり勧進聖と呼ばれる貿易の実務を行う
中尊寺の僧たちであっただろう。情報収集、人材確保、操船・
航海術の習得・伝授、翻訳・通訳、商取引、倉庫管理など、
仕事はいくらでもあった。
 清衡は彼ら勧進聖と応答しながら、世界認識を広めて
いったと考えられる。たとえば象牙に関してである。
宋・南越(ベトナム)、天竺(インド)、胡(ペルシャ)などの
さらに西に、黒い肌の者たちが住む広大な国があり、
象という大型の獣がいる。
これはその獣の牙である、という具合にである。
 実際に宋の交易船は、インド洋を渡り、東アフリカ・
モザンビーク海峡へ向けて航海している。船はザンベジ川を
遡り、ジンバブエを目指した。この地は古代から金の
産出地として知られ、フェニキア、ペルシャ、インドネシア
などと活発に交易を行っていた。金・銀・銅・象牙・犀角・
真珠・香料などを輸出し、宋の陶磁器や綿布を輸入していた。
金色堂須弥壇の象牙も、おそらくは当地の輸出品だっただろ
う。
 清衡の夢は100年続いた。平泉はやがて、毛越寺、
無量光院、観自在王院が建立された。春に束稲山
(たばしねやま)に1万本の山桜が咲き、人々は猫間ヶ淵に
船を浮かべ、管弦散楽の宴を催して春の桜を愛でた。
戦さ無き世を望んだ清衡の夢は、源頼朝軍18万の奥州
侵略によって、無残に踏み破られる事になるのである。

相馬黒光(こっこう)

 寒い季節になると、セブンイレブンの店内に「新宿中村屋
の中華まんじゅう」のショーケースが現れる。私は特に
「あんまん」に思い入れが深い。絹のようになめらかな
舌触りで、独特の風味やこくがある「あん」は、他社製品
の追随を赦さないと、ひそかに思っている。
 人は誰しも、「世の中にこれほど美味しい食べ物が
あったのか」という品目を、1つや2つ持っているだろう
が、私の場合その1つが「中村屋のあんまん」なので
ある。子供の頃の味覚は、後々まで影響するものらしい。
 その新宿中村屋の創業者は、星 良(りょうという女性
である。後に長野県穂高町出身の相馬愛蔵と結婚し、
筆名に黒光(こっこう)を用いた事から、相馬黒光として
知られる事になる。
 黒光は1875(明治7)年9月11日、仙台県第一区
定禅寺櫓丁通(じょうぜんじやぐらちょうどおり)本材木
町西裏末無という所に生まれた。現在の仙台市青葉区立町
あたりである。西公園から立町一帯には、仙台藩重役の
屋敷が建ち並んでいた。
 明治8年という年は、御一新(明治維新)の7年後、
廃藩置県の4年後であり、仙台城下の人口は5万人程で
あった。城下には維新政府の薩長兵が駐屯し、旧仙台藩
家臣の切腹だの斬首だのという血なまぐさい事件が、
いまだに続いていた。
 黒光の祖父・星雄記は、勘定奉行などの要職を歴任した
人物だったが、若き日に長崎の蘭学者を訪ねた事もある
開明派であり、処罰は受けず屋敷の隠居所で四書五経を
講じていた。父の喜四郎は多田家からの婿養子で、
旧幕府軍の江川太郎左衛門から砲術を学んだ人物だった。
黒光は武家の娘として躾られた。
 明治という時代は、数々の制度改革と共に、堰き止め
られていた欧米文化が熱っぽく押し寄せ、暖流と寒流の
ぶつかり合う「潮目」のようになっていた。
欧米文化は「ハイカラ」であり、ある種の崇拝をもって
日本人に迎えられた。
 黒光は13歳で洗礼を受けた。当時キリスト教
(耶蘇教)は「邪宗門」と言われていたが、彼女は宮城
女学校から横浜のフェリス和英女学校、東京・麹町の
明治女学校と、キリスト教系の学校へと進学する。
 黒光22歳の明治30年、5歳年上の相馬愛蔵と
結婚し、3年後に長男誕生。東京帝国大学正門前に、
パン屋「中村屋」を開業するのは、その翌年の1901
(明治34)年12月30日の事である。
 1904(明治37)年2月8日と言えば、日露戦争
開戦の日である。日本国民の関心は、当然の事ながら
大国ロシアとの戦争の行方に向けられていた。同じ
頃黒光は、次女を出産した。夫の愛蔵が築地で
「シュークリーム」という西洋菓子を買ってきたのも、
そんな時だった。
「世の中にこんな旨いものがあったのか!!!」
と、愛蔵も黒光も驚いた。
「このクリームを、パンの中に入れたなら・・・」
 黒光の小さな閃きが、「クリームパン」と「クリーム
入りワッフル」誕生につながってゆく。私はこのエピソード
が好きである。日露戦争は凡愚の大将・乃木希典を英雄に
し、10万余の戦死者を出した。日本海海戦で大勝利し、
「君死にたもうことなかれ」という与謝野晶子の名詩が
生まれたが、総じて不毛なものである。ところが戦争
などに関係なく、食い物の旨さに感動すると、次世代へ
受け継がれるクリームパンのような名品が生まれるので
ある。
 木村屋の餡パンに続き、中村屋のクリームパンは
ヒットした。そんな中、税金問題から店の転居を迫られる
事態が発生した。黒光は千駄ヶ谷から市電の終点方面
に狙いを定め、支店の場所を探しまわった。
 豊多摩郡内藤新宿は、当時場末の荒野だった。安手の
遊女屋が建ち並び、甲州街道の荷車屋と一膳飯屋などが
あった。新宿駅東口は裏玄関で、栗やみかんを戸板に
並べて売っている小さな果物屋があった。現在の「高野
フルーツパーラー」である。
 1907(明治40)年12月15日、中村屋新宿支店が
オープンした。隣には屑屋・豆腐屋・銭湯が並んでいた。
紀伊国屋という炭屋もあった。この店の「もっちゃん」
が炭屋を本屋に変えたのは、1927(昭和2)年の事
だった。
 中村屋の相馬黒光についてのエピソードは数多い。
彫刻家・荻原守衛(碌山)の名作「女」のモデルは黒光で
ある。中村屋サロンには、彫刻家・高村光太郎、
盲目の詩人・エロシェンコ、岩波書店の岩波茂雄、
書家の会津八一など、多彩な文化人が顔をそろえていた。
 また、インド独立運動の指導者、ラス・ビハリ・
ボースから、直伝の「カリーライス」を伝授されたのも
黒光である。

カリーライス

 1838(天保9)年2月16日は、大隈重信の誕生日
だそうだ。佐賀藩出身で、伊藤博文や黒田清隆内閣の
外相。1914(大正3)年には第二次大隈内閣を組織し、
第一次世界大戦へ参戦した。
 その大隈が首相在任中の1915(大正4)年12月初め。
「よろずちょうほう萬朝報」という新聞に、
「追放印度人の失踪一日夜 頭山邸から消える」
という記事が載った。頭山とは、国家主義団体「玄洋社」
の最高指導者・とうやまみつる頭山満であり、追放印度人
とは、16歳の時インドの英国人総督に爆弾を投げて
負傷させ、首に16万ルピーの懸賞金を懸けられた
お尋ね者、ラス・ビハリ・ボース29歳だった。
 大隈と玄洋社の間には、ただならぬ因縁がある。
1889(明治22)年、51歳の大隈は、伊藤内閣の
外相として不平等条約改正にあたっていた。だがその
条約改正が国辱的であるとして、玄洋社社員・杉山茂丸に
爆弾を投げつけられ、
右脚を失うのである。杉山とは、作家・夢野久作の父
だった。
 頭山の玄洋社には、苦々しい思いのある大隈だが、
身は日本国首相であり、日印協会会頭も兼ねていた。
「ボースの隠れ家は、大隈総理の邸内か?」
という噂までささやかれていた。
 話は前後するが、11月28日にイギリス大使が
外務省を訪れ、ボースら3人の印度人の身柄を引き渡す
よう要請してきた。彼らは敵国ドイツの援助を受けて、
インド独立運動を画策しているというのが理由だった。
日本政府としては、日英同盟の立場上3人に国外退去命令
を出さざるを得なかった。
 ボースを匿っていた頭山とて、国の決定に表立って
逆らう事は出来ない。さりとて欧州航路に乗せれば、
上海か香港あたりで捕まってしまう可能性が高かった。
捕まれば殺される。義に生きる頭山に、そんな事は出来
なかった。困った。どこかに隠れ家はないものか。
 そんな時、「そう言えば店の裏のアトリエが空いて
いる」と、頭山に言った
男がいる。新宿中村屋の主人・相馬愛蔵である。
ボースら国際指名手配犯の身柄をあずかり、事露見の暁
にはその身は切腹、お家は断絶という事態にも
なりかねない。
「一商人といえど、相馬愛蔵・男でござる」と、
仮名手本忠臣蔵十段目のあまかわや天河屋義平の如き
セリフを言ったかどうか。ともかくも愛蔵は、危険覚悟で、
ボースとグプタを匿う事にした。頭山邸から新宿中村屋
まで彼らを乗せた車を運転したのは、大隈外相を襲った
杉山茂丸。日印爆弾男の奇縁だった。
 中村屋裏のアトリエは、荻原守衛(碌山)が設計し、
つい先頃まで画家の中村つね彜が住んでいた。それゆえ
炊事場やトイレもあった。そこで2人の印度人を迎え
入れたのは、愛蔵の妻・良(筆名・黒光)40歳だった。
 新宿中村屋を実質的につくり育ててきた女主人・
黒光は、愛蔵以上に「任侠の人」だった。いざとなったら
私が罪を一身に被ろうと胆を決め、2人の印度人の
世話をやいた。英語は女学校時代から得意だったので、
何とかなった。加えて中村屋はパン屋である。朝食の
パンには事欠かない。
 しかし、印度人の食事の好みがわからない。黒光が
困っている所に、ボースからメモが届いた。
「カレー粉・骨付きチキン・野菜・スパイス類・
ヨーグルト・・・」
ボースが「カリーライス」と呼ぶものの材料だった。
 カレーは1872(明治5)年、西洋料理指南なる本で
初めて紹介され、20年を経てようやく庶民に普及する。
このカレーライスは、イギリスから取り入れた
洋食で、インド料理ではなかった。
 ボースは黒光に、ベンガル風カリーライスの作り方を
伝授した。これがカリーパンと共に今も続く、中村屋
看板商品誕生の物語である。4ヶ月半に及ぶアトリエ
滞在の間に、ボースは相馬夫妻を「父母」と呼んで慕った。
「義によってこういう命がけの経験をいたしました間柄と
いうものは、肉親の親子以上の親しみと敬慕の念を感じ、
私は名残惜しさに流れる涙を抑え抑えして、窓にすがって
離れてゆく自動車のあとを見送りました。(黙移)」
と、黒光は自著の中でボースとの別れの時を語っている。
 頭山は「天洋丸事件」による対英外交の弱腰を非難し、
日本政府にボース残留を認めさせるのだが、英国大使館は
私立探偵を雇って、ボース探索を続けた。この為ボースは、
水戸・静岡から再び東京へと、転々と居を移さざるを
得なかった。
「ボース1人では心許ない。昼夜身辺に寄り添う婦人が
要る。俊子さんなら、英語も出来るし申し分ない」と、
頭山が無茶を言い出した。
 俊子とは相馬夫妻の長女で、この年20歳。中村彝が
俊子に求婚し、黒光との仲が険悪なものになった事も
ある。だが今度は、俊子も黒光も同意した。
ボースは後藤新平と犬養毅が保証人となり、5月に頭山邸
で挙式の運びとなった。相馬夫妻とボースは、文字通り
親子になったのである。中村屋のカリーライスは、
何やら人間世界の深くて不可思議な絆の味がする。

中村屋サロン

 新宿・中村屋の創業者、相馬愛蔵・黒光夫妻の周囲には、
明治・大正・昭和を代表する文化人が集まる、何とも
不思議な磁場があった。
 まず相馬黒光である。彼女は本名を星 良(りょう)と
言い、1875(明治8)年仙台に生まれた。良の叔母に
星 艶(えん)という女性がいた。嘉永6年というから、
黒船来航の頃の生まれである。艶は星家の三女として
自由に育てられ、娘時代には男装して馬を乗り回して
いたという。艶は18歳で上京し、女子高等師範
学校などで英語を学ぶ一方、江戸から明治へと大変革を
遂げる時代、政治に興味を持って自ら政談演説も行なった。

 艶は開業医のささ佐々きほんし城本支と結婚し、
名も豊寿(とよじゅ)と改めた。佐々城豊寿は日本基督教
婦人矯風会の事務局長となる。
「火付・盗賊・人殺・異宗門禁制」という高札が町の
辻々から撤廃され、新教(プロテスタント)諸派の布教
活動が許されたのは、1873(明治6)年、豊寿
20歳の時である。しかも、キリスト教を邪教として
異端視する傾向は根強かった。豊寿の内面の激しさが
察せられる。
 この矯風会初代会長・矢島楫子(かじこ)の甥が、
評論家の徳富蘇峰と、作家の徳富蘆花だった事から、
豊寿は彼らと親しく交遊する。一方豊寿は、信子という
娘を産む。彼女は作家の国木田独歩を捨てた女として、
有島武郎の代表作「或る女」のモデルになった佐々城信子
である。
 黒光は叔母・豊寿を頼って上京し、フェリス女学校に
入学するのだが、佐々城家によく出入りし、独歩を紹介
され、ワーズワースやツルゲーネフなどの文学を教え
られたという。独歩の友人には、同じ作家の田山花袋
もいた。
 黒光はフェリス女学校を中退し、明治女学校へと
学校を移る。ここで英語教師をしていたのが、若き日の
島崎藤村24歳だった。黒光によると藤村の授業は
「ちっともおもしろくなかった」という。彼は全体と
して精彩に欠け、女学生の間では「石炭がら」と
あだ名されていた。とはいっても黒光は、結婚後信州・
小諸(長野県小諸市)の藤村宅を訪ねているので、
仲が悪かったという事ではないらしい。
 豊寿が最も親しく交際していた人物に、8歳年下の
内村鑑三がいる。内村は1861(文久元)年に高崎藩
(群馬県高崎市)の武家に生まれ、武士道と儒教的道義を
厳しくたたき込まれた。キリスト教に入信するのは、
札幌農学校に入学する10代後半の頃で、渡米して確固
たる信仰に至る。第一高等中学講師をしていた
1891(明治24)年に、教育勅語に敬礼しなかった、
いわゆる「不敬事件」で教壇を追われる事になる。
自他に厳しい不屈の人だった。足尾銅山鉱毒事件では
財閥を攻撃し、日露戦争では非戦を論じた。
 相馬愛蔵もキリスト教を通じて、古くから内村と交流を
持っていた。愛蔵の郷里は信濃国安曇郡白金村
(長野県穂高町白金)だった。彼はこの村で養蚕事業を
行なう傍ら、東穂高禁酒会を組織して会長を務め、
あるいは孤児院救援活動を行なうなどの、キリスト教的
社会活動を展開してゆくのである。
 だが愛蔵は、内村ほど厳格ではなかった。禁酒を主張
していたはずの彼が、中村屋を立ち上げた頃、利益率の
良さから洋酒を扱おうとした事がある。内村は激怒した。
「悪魔の使者とも言うべき酒を売るとは言語道断。
もし売るなら絶交です。」
内村にこうまで言われては、愛蔵もあきらめざるを
えなかった。
 愛蔵と同郷で、禁酒会などの活動に参加していた
後輩に、彫刻家の荻原守衛
(碌山ろくざん)がいる。1879(明治12)年生まれ
だから、愛蔵の9歳下、黒光の4歳下という事になる。
20歳の時上京して、油絵を小山正太郎の「不同社」で
学び、2年後に渡米。さらにその2年後に渡仏して
アカデミー・ジュリアンに学んだ。
 碌山という雅号は、夏目漱石の小説「二百十日」の
登場人物「碌さん」に由来するという。守衛がしきりに
「碌さんは面白い」と友人たちに話すので、いつしか
彼は碌さんと呼ばれるようになった。彼はロダンの
「考える人」や、ミケランジェロの「奴隷」などの
作品に接して作風に開眼。留学8年で帰国する。
 帰国後は、新宿・中村屋近くの角筈新町(西新宿)に
アトリエを構え、「文覚(もんがく)」「デスペア(絶望)」
「女」などの傑作を産み出してゆく。そもそも守衛は、
黒光によって芸術の世界へ導かれ、黒光への愛慕と
煩悶を作品に結晶させていったのだった。守衛にとって
黒光は、魂の友でありミューズの女神だった。
 1910(明治43)年4月21日、守衛は中村屋の
茶の間で喀血し、翌日あっけなく死んでしまう。
31歳だった。守衛を慕って、画家の中村つね彝や
彫刻家の中原悌二郎、高村光太郎などが集まり、
やがて「中村屋サロン」という磁場が形成されてゆく。
 守衛の死と同じ頃、武者小路実篤、有島武郎、
柳宗悦(やなぎむねよし)らが雑誌「白樺」を創刊。
中村屋サロンと連動しながら、白樺派や民芸運動という、
大正・昭和という時代の、新しい文化の潮流を形成して
ゆく事になるのである。
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